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平安京の中枢・大内裏の跡地散策。京都市

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 2月23日、平安京の大内裏の跡地を散策しました。千本通と丸太町通の交差点の周辺になります。
 大内裏は天皇のお住まいと官庁街を兼ねた場所です。今でいう皇居と霞ヶ関を兼ね備えた所です。

 千本通と丸太町通の交差点からすぐ北西側に大極殿跡があります。
 平安時代初期、大極殿は天皇の即位に使われました。しかし、何度か火災にあったため、1177年以降は大極殿は再建されることなく、その後の即位式は紫宸殿で行われるようになりました。現在でも天皇の即位式は紫宸殿で行われます。昨年、天皇陛下の即位式も紫宸殿で行われました。

 そして丸太町通の南側には式部省の跡地は式部町があります。式部省は人事に関する事務を行う役所でした。
 源氏物語を執筆した紫式部。「紫式部」は式部省の役人のお嬢さんと言う意味です。紫式部の父親の藤原為時は式部省の高官でした。

 主税寮跡地は主税町になっています。主税寮は民部省の下にある役所で、税の徴収などを担当する役所でした。
 民部省は財務省、主税寮は国税庁と例えるとわかりやすいかもしれないです。
 「主税」と書いて「ちから」と読みます。忠臣蔵の大石内蔵助の息子・大石主税がいました。大石「ちから」と読みますね。

 そして京都市児童福祉センターの所には太政官跡の説明がありました。太政官は国家の最高機関でした。今でいう官邸になります。

 桓武天皇が建設した平安京ですが、余りにも大きすぎました。右京は使われないままでした。
 そして大内裏も大きすぎたため、規模が縮小していきました。相次ぐ火災もあり、ついに大内裏は再建されなくなり、鎌倉時代には荒地になっていました。
 ただ、大内裏跡地だったため、恐れ多い事もあって、誰も建物を立てようとはしませんでした。そして、武士が武芸に励む練習場になっていました。

 豊臣秀吉の時代になり、京都再興という事で、豊臣秀吉は大内裏のあった場所に荘厳な城を建設しました。聚楽第です。
 その跡地は聚楽という地名で残っています。「第」は建物という意味です。

 そして千本通り(JR二条城駅付近)は朱雀大路でした。平安京ができた時、朱雀大路は幅80mの道でした。今では想像もできないですね。

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