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大伴氏。淳和天皇ために姓を「伴」変える。京都市右京区
2月23日、仁和寺の近くにあります住吉大伴神社の側を通りました。大伴氏の氏神を祀っている神社です。
大伴氏といえば古代・大和朝廷の時代からある豪族で、大和朝廷の軍事を管轄する大連の家系でした。もう1つの大連の家系は物部氏でした。
大伴氏といえば大伴金村と大伴家持が有名です。
大伴金村は継体天皇を擁立した人物です。武烈天皇が崩御した際、皇統が絶えるという事態に陥りました。
その時、応神天皇から5代目の男大迹王を推挙しました。それが継体天皇です。
当時は臣籍降下という概念がなかったらしく、天皇の男系子孫は「王」と名乗っていたようです。
その後、大伴金村は安閑天皇、宣化天皇、欽明天皇に仕えました。
欽明天皇の時代に、任那政策の失敗を、物部氏に追及され、失脚する事になりました。権力闘争に敗れたという事です。
大伴金村が失脚した事で、豪族間の力の均衡が崩れたのか、すぐに蘇我氏と物部氏の争いになりました。
ところで大伴金村が武烈天皇の擁立から欽明天皇の初期まで天皇の仕えていたとされていますが、少なく見積もっても50年、歴代の天皇に仕えていた事になります。
仮に20から使えたとしても70歳以上まで生きたと考える必要があります。そのため本当に武烈天皇から欽明天皇まで仕えていたのかどうか疑問が生まれます。
大伴家持は万葉集の編纂に関わった人物として有名ですね。
その大伴氏ですが、平安時代初期、淳和天皇の諱が大伴だったため、大伴氏は「我々が皇族の諱を名乗るのは畏れ多い」となり、伴と名乗るようになりました。
「諱」とは今でいう名前の事です。当時、名前を気軽に呼ぶのは失礼になりました。
そのため大伴氏は「大伴」の姓の変更を迫られたのか、自主的に変更したのか、わかりませんが、「伴」に変えることになりました。
その後ですが、伴氏は衰退していき、歴史の表舞台から姿を見せなくなりました。
ところで現在の日本に「伴」という名字があります。もしかしますと大伴氏の末裔かもしれないですね。