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栗花落の井の伝説。逆・玉の輿? 神戸市北区山田町

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 3月1日、神戸市北区山田町を散策しました。
 この地は栗花落(つゆ)の井の伝説の井戸があります。

 まずは看板に書いていました伝説を紹介します。
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 この地(矢田部郡司)の山田左衛門尉真勝は淳仁天皇に仕えていました。
 ある日、左大臣・藤原豊成の娘・白瀧姫に恋をしました。身分が違いすぎるため恋を諦めないといけないと苦しんでいました。
 そんな折、淳仁天皇は真勝の人柄を気に入っていたため、仲人を買って出でました。そして無事、白瀧姫と結婚する事になり、白瀧姫を連れて山田の地に戻ってきました。
 しかし、幸せな夫婦生活は3年で終わりました。白瀧姫が男の子を生んだ後、亡くなってしてしまいました。
 真勝は弁財天の社を建て姫を祀りました。そして社の側の井戸から清水が出てきて、日照りになっても耐える事がなかったという。その井戸を栗花落の井と呼ぶようになりました。
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 牧歌的な伝説ですね。

 しかし、伝説は史実と異なる部分があります上、淳仁天皇の時代は朝廷内で激しい権力闘争が繰り広げられました。

 藤原豊成ですが、淳仁天皇の時代は失脚していました。
 淳仁天皇の前の孝謙天皇(女帝)の時代、藤原豊成は右大臣でした。時の権力者は孝謙天皇の母親の光明皇后(聖武天皇の皇后)でした。
 橘奈良麻呂の乱が起こり、部外者のはずの藤原豊成は失脚。この時、光明皇后の寵愛を受けていた藤原仲麻呂(藤原豊成の弟)が台頭してきました。
 女帝・孝謙天皇は退位させられ、操り人形にできる淳仁天皇を即位させました。
 それから光明皇后(藤原家出身)と藤原仲麻呂の二人三脚の政治(暴走?)が始まりました。唐かぶれの2人だったため、元号を唐風の四文字にしたり、官位を唐風の呼び方にしたりしました。
 しかし光明皇后が亡くなった事で、藤原仲麻呂は後ろ盾を失いました。
 それでも孝謙上皇の信頼がありましたが、孝謙天皇が道鏡にハマり、道鏡を寵愛するようになってからは、藤原仲麻呂と対立するようになりました。

 そして藤原仲麻呂が乱を起こしました。藤原仲麻呂の乱は鎮圧され処刑。藤原仲麻呂と仲が良かった淳仁天皇は退位させられた上、淡路へ流刑になりました。
 それと同時に孝謙上皇が重祚し、称徳天皇になって道鏡と二人三脚で政治(暴走?)を行う事になりました。
 藤原豊成は冤罪だとわかり、右大臣に復帰しました。

 とても牧歌的な雰囲気の時代とは思えないですね。

 山田左衛門尉真勝。右大臣と比べると身分は低いですが、庶民から見ると高官になります。
 左衛門尉の官位になった有名人は、源義経、遠山の金さんです。この官位は貴族一歩手前の位階(正・従六位)の人がなる官位です。

 今で例えますと、若手キャリア官僚が、副総理のお嬢さんにゾッコンといった所でしょう。

 ところで栗花落の井の伝説ですが、いくつかの話があります。
 山田に住んでいた左衛門という男が、都へ出て右大臣・藤原豊成の庭師として働き、お嬢さんを見て惚れてしまう話です。
 白滝姫 泉に降る栗の花 <ひょうご伝説紀行 - 語り継がれる村・人・習俗 ‐>(兵庫県立歴史博物館)

 ところで、伝説の白瀧姫ですが、現在でも見る事ができます。
 北神急行のマスコット・北神弓子は、白瀧姫がモデルです。北神急行電鉄の本社が神戸市北区山田町にありますため、それにちなんだマスコットが作られたようです。

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