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花見といえば梅。奈良時代から平安初期までの花見。

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 今の日本人にとって花見といえば桜を連想しますが、奈良時代から平安時代初期までは梅を見る事でした。

 梅は中国原産の植物で、奈良時代に遣唐使が日本に持ち帰ったと言われています。(古代に渡来人と共に日本に伝わった説もあります)
 奈良時代といえば、唐は先進国で、日本は発展途上国でした。そのため唐の文化に憧れた皇族・貴族は沢山いました。
 特に光明皇后と藤原仲麻呂(恵美押勝)の二人三脚の治世の時、唐かぶれの2人は、唐かぶれを反映させた政策を行っていました。

 梅の名所といえば北野天満宮が挙げられます。菅原道真が梅をこよなく愛した事に由来します。
 その菅原道真ですが、894年に遣唐使の大使に選任されましたが、中止するのが望ましいと進言し、遣唐使は廃止になりました。

 よく言われていますのは、遣唐使廃止により、唐の情報は入りにくくなった反面、日本文化を見直そうという動きがでて、国風文化につながった上、その過程で、花見が梅から桜になったという事です。
 梅が大好きな菅原道真が遣唐使を廃止したことで、花見が梅から桜になったのは、歴史の不思議さを感じますね。

 ただ、遣唐使が中止になったからといって、完全に情報が遮断されたかと言いますと、そうでもありません。
 なぜなら朝鮮半島や渤海、民間の貿易を通じて、唐の情報は入っていました。それに菅原道真が遣唐使の大使に選らばれた時、約60年ぶりの遣唐使でした。
 60年間、遣唐使を行っていませんでしたが、唐の情勢は、朝鮮半島や民間から朝廷に入っていました。
 唐の政情不安を懸念して、菅原道真が遣唐使の中止を提案しました。実際、唐は907年に滅んでいますので、比較的、正確に中国大陸情勢の情報を入手していたと考えられます。
 そのため遣唐使中止が、唐風文化から国風文化に変わる分岐点だったかとは断定しにくく、何か別の要因があったのかもしれません。
 唐が滅んだ後、日本は渤海と交流がありましたが、928年に渤海も滅んだため、さらに海外情報が入りにくくなった可能性はあるかもしれません。

 ところで菅原道真が中止を提案した理由の1つには、危険な航海だったため、死にたくなかった菅原道真が体よく中止を訴えたとも言われています。

 さて「梅」という字を漢和辞典で調べてみました。
 古代中国で、ウメを指す言葉が「毎」と同じ発音だったため、「木」片に「毎」で、梅になったそうです。
 なぜ「毎」が当てられたのかは、わかりませんが、何か理由はありそうですね。

 写真は、今年の2月に北野天満宮へ行った時に撮影しました。

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