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疫病が原因で起こった大規模な反乱。740年の藤原広嗣の乱。

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 コロナウイルスの世界的大流行が報道されています。
 歴史を紐解きますと、ウイルスが政情不安や反乱の引き金になった例があります。

 奈良時代、疫病が原因で5年に渡る大規模な反乱が起こりました。740年の藤原広嗣の乱です。

 737年、聖武天皇の時代に疫病が大流行しました。天然痘で遣唐使が持ち帰ったと言われています。
 権力の中枢にいました藤原四兄弟をはじめ、高官が次々と亡くなりました。
 朝廷が機能不全しました。事態打開のため聖武天皇は、生き残っていました公卿(政権幹部)だった橘諸兄を左大臣に抜擢する事になりました。

 橘諸兄は唐からの留学帰りの吉備真備、玄昉を抜擢しました。
 この時代、家柄・身分と役職は連動していましたが、次々に高官が倒れていく中、人材不足解消のため、家柄や身分に関係なく人材を登用しなければならない事態でした。

 その一方で藤原家の地位は低下していきました。
 それに危機感と不満を持ったのが、藤原四兄弟の藤原宇合の息子・藤原広嗣でした。
 公の場で藤原家の地位低下の不満を露にしていたため、ついに藤原広嗣は大宰府へ左遷されました。

 藤原広嗣の怒りは止まりません。大宰府から「疫病や社会情勢の不安は、唐帰りの吉備真備、玄昉を採用した事が、天の意思と異なったからだ」という上奏文を送りました。
 そしてついに挙兵する事になりました。740年の藤原広嗣の乱です。

 藤原広嗣は聖武天皇の従兄弟でした。光明皇后の甥にも当たりました。非常に近い身内から反乱が起こったため聖武天皇は激しく動揺しました。
 そして鎮圧を家臣に任せ、聖武天皇は伊勢へ行幸(逃避行動)をしました。その後、度重なる遷都を行いました。聖武天皇の迷走です。

 困ったのは政権中枢にいた橘諸兄です。現実逃避した聖武天皇、藤原広嗣の乱、疫病対策などなど。
 それでも現実を見ながら改革を実行していきました。743年、墾田永年私財法が発令されました。

 律令体制は、公地公民(土地・人民は天皇が所有)が前提で、田畑の私有は認めていませんでした。
 それを覆す法律のため、律令体制の根幹を揺るがすものでした。
 しかし、疫病や災害、度重なる遷都で、国家財政が疲弊していたため、生産性向上のため、なりふり構わぬ改革が必要でした。
 745年、藤原広嗣の乱は鎮圧されました。藤原広嗣は海外逃亡を行おうとして済州島へ向かいましたが、向かい風のため、押し戻され、御用になりました。

 コロナウイルスの早期の収束と、国際情勢や、国内情勢に悪影響を及ぼさない事を願うしかないですね。

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