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4月16日。日本を去った2人のアメリカ人。クラークとマッカーサー

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 1877年(明治10年)、札幌農学校のクラーク博士が「Boys,be ambitious!」(少年よ、大志をいだけ)と叫び、札幌農学校に別れを告げました。
 たった8ヶ月の滞在だったため、教え子は一期生の16人だけでした。意外と少ないです。
 ただ、アメリカでクラークの教えを受けた人物もいます。同志社大学の創設者の新島襄です。

 ところで「Boys,be ambitious!」の表現ですが、英語話者の人から「この表現は、おかしい」という指摘があるようです。
 「boys」は、小中学生に呼びかける言葉で、青年男性には「boys」とは呼びかけないという意見です。
 「Be ambitious!」は、俗っぽい表現になるという話もあります。本当にクラークが「Boys,be ambitious!」と叫んだのかどうかは謎ですね。

 そして、もう1人のアメリカ人はGHQのマッカーサー元帥です。
 1950年4月16日、マッカーサーは解任され、日本を去った日でもあります。マッカーサーは臆病な愚将と言われています。
 戦前マッカーサーは、アメリカの植民地だったフィリピンで司令をやっていました。
 太平洋戦争の初期、日本がフィリピンを攻めた時、部下を見殺しにして逃げてしまった臆病者です。
 そして戦後、マッカーサーは恨みを晴らすため、マニラで行われた軍事裁判で、日本軍の将校を処刑していきました。

 日露戦争の日本の将軍・乃木希典は、降伏してきたロシアの将軍・ステッセルとの水師営の会談で、帯刀を許可して、敵将・ステッセルへの敬意を示しました。
 乃木希典は、軍人だった2人の息子を日露戦争でなくしています。それでも個人的恨みに走らず、敵将に対して敬意を表しました。マッカーサーとの器の違いを感じますね。

 そんな臆病者のマッカーサーですが、敗戦国・日本では尊大な態度をとっていました。
 当時、日本人でマッカーサーに媚びた人達がいました。しかし、白洲次郎は違いました。
 昭和天皇からの贈り物を届けた歳、マッカーサーが「床に置いておけ」と言ったため、白洲次郎は「陛下からの贈り物を床に置けてとは何事だ」と一喝しました。
 そんなマッカーサーを見抜いていたのか、吉田茂も上手にマッカーサーに対して応戦していました。

 マッカーサーの臆病な面を紹介します。
 GHQは皇室を廃止しようとし、第一段階として昭和天皇とマッカーサーのツーショットの写真をばら撒きました。
 マッカーサーは「俺の方が背が高い上、貧相な体型の天皇なんぞ日本国民に見せたら、日本国民は天皇から離れる」と目論みました。
 しかし、全く効果が無かった上、昭和天皇が各地を行幸すると、国民は「天皇陛下バンザイ」でした。もし、天皇を処刑し、皇室を廃止したら、日本各地で反乱が起こる。臆病なマッカーサーは皇室の存続に方針転換しました。臆病なお陰で、日本の伝統は守られました。

 マッカーサーは日本の事を野蛮国だという認識でした。そのため「漢字を廃止して英語にすれば、文明国になる」と考え、識字率を調査すると、アメリカ本国よりも高い識字率だったため、恐れおののいた話もあります。

 マッカーサーが解任された理由です。朝鮮戦争の時、国連軍の司令官も兼ねていました。
 朝鮮戦争の終盤、こう着状態が続いたため、それを打開するため、原爆投下を持ち出しました。それがアメリカ大統領・トルーマンの逆鱗に触れ、解任になりました。

 近現代史を見ますと、学校の教科書には出てこない部分を垣間見る事ができますね。

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