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戦国時代の後奈良天皇。なぜ「後・奈良」なのか。

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 最初に結論を書きますと、私の勉強不足でわかりません。
 でも、この1行でブログを終えると寂しいので、後奈良天皇の話について書きます。

 後奈良天皇は戦国時代の天皇です。
 応仁の乱以降、朝廷は、荘園からの収入が絶たれ、貧乏になりました。朝廷儀式どころか御所の修復すらできない有様でした。
 後奈良天皇も例外ではなく、践祚しても即位式ができず、践祚から10年。ようやく戦国大名からの献金によって即位式を行う事ができました。
 そして朝廷の予算を少しでも稼ぐため、直筆のサインなどを販売していました。
 しかし、清貧だったため、賄賂目的の献金は一切受け付けませんでした。ここが天皇としての意地のようですね。

 ところで奈良天皇は存在したのかと言いますと、歴代の天皇の名前に奈良天皇は出てきません。
 でも、奈良天皇は存在します。平城天皇の別名は「奈良天皇」だからです。

 しかし、平城天皇と後奈良天皇の共通点を探しても、私が知る範囲では見つかりません。

 「平城」の贈り名の由来ですが、上皇になった後、弟の嵯峨天皇に相談する事なく、平城遷都を強行した事に由来します。
 平城上皇は病弱だったため、3年で天皇の位を弟の嵯峨天皇に譲りました。しかし権力への執着はありました。
 平城天皇と愛人の藤原薬子、藤原薬子の弟の藤原仲成が結託して、クーデターを起こしました。薬子の変です。平城遷都を決行しました。
 弟の嵯峨天皇は動じる事なく、坂上田村麻呂を派遣。平城天皇を幽閉、藤原仲成を討ち、藤原薬子は自害しました。

 平城天皇の「平城」という贈り名は、平城(なら)に遷都したことに由来します。そのため別名「奈良天皇」です。
 しかし、後奈良天皇は奈良に住んでいませんでした。そのため、なぜ「後・奈良」なのかの理由がわかりません。

 ところで「後」という贈り名がつく天皇。後奈良天皇の父親の後柏原天皇がいました。
 柏原天皇も歴代の天皇の名前には出てきません。桓武天皇の別名だからです。

 桓武天皇(柏原天皇)と平城天皇(奈良天皇)は父・子でした。
 後柏原天皇と後奈良天皇も父・子でした。

 ただ、桓武天皇と後柏原天皇の共通点も、私が知る限りではわかりません。

 他の天皇でみますと、平安時代から鎌倉時代までの天皇は、わかりやすいです。
 一条天皇は一条という所に住んでいたという理由です。後一条天皇は、一条に住んでいた2人目の天皇という意味です。2人目なので「後」がつきます。

 特殊なのが後醍醐天皇です。醍醐天皇の親政(延喜の治)を行ったため、醍醐天皇にあやかって後醍醐と名乗りました。
 しかも贈り名ではなく、自分から名乗っていました。建武の新政は3年で頓挫しましたが。

 歴代の天皇の贈り名を見ますと、不思議な事が見えてきますね。

 写真は2017年に平城京跡で撮影した物です。太極殿を再建した物です。

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