Blog

楠葉と樟葉の違いは継体天皇のお陰。大阪府枚方市

ブログ

 2017年5月に枚方を散策した時の話です。
 枚方の地名で「くずは」があります。町名は「楠葉」ですが、駅名は「樟葉」になっています。
 経緯を知らないと、どちらが正しいのか混乱しそうですね。

 元々の漢字表記は「楠葉」でした。
 しかし、明治22年に楠葉村が隣の船橋村と合併するとき、楠葉村にしようとしたら、船橋村の人達は猛反発しました。
 今でも市町村合併の際、名称をどうするのかで揉めますが、当時も揉めていました。自分達の村が、他の村に吸収されてなくなるとなれば怒りますね。

 そこで妥協点がないかと考え、船橋村の人達が「継体天皇の樟葉宮があるから、『樟葉』なら容認できる」となり、樟葉の表記に変わりました。
 その後、50年間は樟葉という表記でした。昭和13年に枚方市と樟葉村が合併した時に、表記が楠葉に戻りました。
 樟葉小学校、京阪の樟葉駅は、樟葉村時代に建設された時の名残りです。当時の漢字表記が受け継がれています。

 文章を書います最中に気づきました。継体天皇は何もしていませんので「継体天皇のお陰」と書きますと、おかしな題名になってしまいます。

 そこで継体天皇の話に触れることにします。継体天皇は、この地で即位しました。
 武烈天皇が崩御後、皇統が絶え、大伴金村が天皇家の血を引く者を探し、応神天皇の5世子孫で越前に住んでいた男大迹王(おおどのおおきみ)に即位を依頼しました。
 しかし、それに反発する豪族達がいました。現代社会でも、ハトコよりも遠い親戚は、赤の他人の感覚です。それと同様に天皇の子孫とはいえ、5世子孫となりますと、皇族とは呼べないと思っていた豪族達もいました。「こんな天皇は嫌だ!!」といって反乱も起きました。筑紫岩井の乱です。
 豪族達の反発を避けるため、大和に入れないまま、この地で即位する事になりました。 この時、58歳です。

 その後、20年間、転々としながら、ようやく大和に入れました。この時、78歳。長寿ですね。

 その間、武烈天皇の妹(手白香皇女)と結婚する事で正統性を示したりしました。
 継体天皇と手白香皇女から生まれたのが欽明天皇です。聖徳太子の祖父にあたる人物で、現在の皇統につながっています。

 継体天皇の存在が、明治の市町村合併にまで影響しているのは意外ですね。

Share

Category

Archive

Recent posts