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壬申の乱の敗者・弘文天皇の陵墓。滋賀県大津市

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 5月23日、滋賀県大津市へ行きました。大津市役所のすぐ近くに弘文天皇の陵墓があります。
 ところで「壬申の乱の時、弘文天皇っていたの?」と思われる方がいらっしゃるかと思います。

 学校の歴史では「弘文天皇」ではなく「大友皇子」で習うことが多いため、大友皇子と弘文天皇が結びにくいです。
 学校では、弘文天皇ではなく大友皇子と習う理由は、いくつか考えられます。

 実際に天皇に即位したかどうか定かでない事です。
 日本書紀には、大友皇子に関する記述では、立太子や天皇に即位については何も書かれていません。
 そして天智天皇の崩御から、壬申の乱が起こり、大友皇子が自害するまでの期間は半年でした。
 そのため仮に天皇に即位していたとしても、儀式も行わなかった上、天皇としての役目は果たせなかったと考えられてきた事から、1200年もの間、天皇とみなされませんでした。

 明治になり、明治天皇は大友皇子に対して「弘文」という諡号が贈り、歴代の天皇に列する事になりました。
 なぜ明治になって大友皇子は天皇として認められたのか。この辺りは当時の政治的な話が絡むようですが、詳しい事はわかりませんので、逃げさせていただきます。

 ところで、なぜ日本書紀に、大友皇子の立太子や即位について書かれていないのか。
 もし、立太子や即位もなければ、額面通り、大友皇子は天皇どころか皇太子にすらなっていなかった事になります。

 しかし、仮に大友皇子が天皇に即位したと考えた場合を考えてみます。
 勝手な仮説ですが、日本書紀が編纂が開始されたのは天武天皇の時代でした。編纂が完成するまでの間の天皇は、天武系の天皇の時代でした。
 大海人皇子(天武天皇)が壬申の乱を起こして、天皇を自害に追い込んで、天皇の地位を簒奪となれば、天武天皇の即位の正統性が疑われます。
 そのため大友皇子を天皇と表記すると具合が悪かった事が考えられます。

 現在の所、大友皇子が天皇に即位したかどうかは学術的には決着がついていないようです。
 古代史の謎の1つかもしれないですね。

 ところで大津市役所のすぐ側には皇子山総合運動公園があります。
 皇子山は大友皇子と陵墓が近くにあるためだと思いそうですが、少し離れた所に豪族の古墳と考えられています皇子山古墳があるためです。

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