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6月5日はホラント王国建国。オランダ消滅と長崎の関係の話

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 1806年6月5日はナポレオンの弟のルイ・ボナパルトがオランダの地でホラント王国(オランダ王国)を建国した日です。
 ナポレオンは皇帝就任後、イギリスの首相・ピットが対仏同盟を呼びかけました。
 ナポレオンはイギリスを攻めましたが、トラファルガーの海戦で、ネルソン提督率いるイギリス海軍に惨敗しました。

 ナポレオンはイギリスを攻めるのは諦め、大陸支配を目論み、ヨーロッパ各地を破竹の勢いで攻めまくり、各地を支配下に治めました。

 オランダを攻めた後、弟のルイ・ボナパルトをオランダの地に送り込み、ホラント王国を建国。王になりました。
 この時点ではオランダは存在していましたが、日本とオランダの交易が中断しました。
 ルイ・ボナパルトはオランダ人寄りの政策をとっていたため、1810年に退位させられ、フランスに併合されました。
 オランダ消滅です。1810年~1815年まで続きました。

 その頃、日本では鎖国政策をとっていましたが、オランダは長崎の出島に出入りが許されていました。長崎の出島で交易を行っていました。
 1810年にオランダ本国が消滅の事態になりました。オランダ商館長はオランダ消滅を隠し通しました。
 1815年にナポレオンの支配から解放され、オランダが元に戻りました。

 オランダ消滅している間もオランダ国旗を掲げる事ができた長崎の出島。
 その事もあり、オランダと長崎県の友好関係があります。そしてハウステンボスの建設の際、オランダ王室も協力した話があります。
 佐世保市(防衛省・自衛隊)

 ところでナポレオンの大陸支配は、日本も無縁ではいられませんでした。
 オランダが、フランスの息のかかったホラント王国時代の1808年。フェートン号事件が起こりました。
 フランスと敵対していたイギリス。イギリスはフランスの息のかかったオランダの商圏を奪いとるため躍起になっていました。
 オランダ船を拿捕する目的のフェートン号。オランダ商船に装って、オランダ国旗を掲げ、長崎の出島までやってきました。
 オランダ商館員は久々のオランダ船だと喜んで船に乗り込んだら、商館員は捕らえられました。

 仰天した長崎奉行所。ただちに湾岸防備を担当する佐賀藩、福岡藩にフェートン号を打ち払う事を命じました。
 しかし、平和な世の中だったため、警備の人数を減らしていたりしていました。
 そしてオランダ商館長から戦闘回避を勧められました。とても勝ち目がなかったからでした。
 フェートン号からは食料、水、薪を要求され、要求に応じない場合は攻撃すると脅しました。
 
 勝ち目がない事から、渋々、フェートン号の要求を呑みました。
 長崎奉行は責任をとらされ切腹させられました。何も悪い事をしていないだけに可哀想ですね。

 この事件をきっかけに幕府は列強に対する脅威を感じた上、佐賀藩は独自の富国強兵を行うようになりました。明治維新の60年前です。
 太平の世から目が覚めたのはペリー来航がきっかけと言われたりしますが、実際にはフェートン号事件が大きかったです。

 ところでオランダ消滅を隠し通したオランダ商館長ですが、幕府にはバレていたようです。
 オランダ商館長からの報告書を見て「報告書の内容がおかしい。フランスが絡んでいる」と分析していたようです。
 でも、オランダ商館長の面子を保つため、知らぬふりをしていた幕府の幹部は優しいですね。
 もしかして厄介な事に首を突っ込みたくなかっただけかもしれないですが。

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