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安福寺の平重衡のお墓。京都府木津川市
6月6日、安福寺へ行きました。JR木津川駅近くにあります。
平重衡は、平清盛の息子で、南都焼討の将軍でした。
南都焼討の際、奈良の東大寺・興福寺を焼いた人物です。
平安時代末期、平家が権力を握りますが、頂点を極めた後、平家の転落が始まりました。各地で反乱が起こったりしました。
平清盛は、奈良の仏教界を抑え込むため、1180年に息子の平重衡に命じて鎮圧する事になりました。
当時の寺院は武装寺院が多い上、大手寺院は強訴(神仏の呪いを掲げて恫喝)する集団でした。
平清盛は出家していたので、坊主vs坊主の対決です。
武装僧侶(僧兵)と平重衡が奈良で激突しました。火の手があがり、それが東大寺や興福寺まで燃え広がりました。
意図的に放火したのか、関係ない所で起こった火災が燃え広がったのかは今となっては謎です。
しかし、東大寺・興福寺が消失してしまったため、平家は仏敵になりました。
奈良の仏教界を鎮圧したものの、平家に対する反発は増すばかりでした。翌年、平清盛は亡くなりましたら、さらに転落への道を進みました。
1184年、一ノ谷の戦いで平重衡は捕らえられました。鎌倉送りになりました。
平重衡の立派な態度に、源頼朝は感服し殺すのには惜しい人物だと考えました。平重衡は文武両道の人だったようです。
しかし、大事なお寺が消失した事から、南都衆徒(奈良の仏教界)から「処刑にしろ」と突き上げられ、平重衡は木津川沿いで処刑されました。
南都衆徒が怒り狂うのは当然としても、殺生を好まない仏教とは程遠いですね。
その一方で、父親の命令には背けなかったという同情もあり、木津川沿いにあります安福寺にお墓(塔)が建てられました。
ところで平重衡は処刑される前に、本人の希望で、浄土宗の開祖・法然に会っています。心の迷いを払拭したそうです。
もしかしますと、平重衡は意図しない火災によって心を痛めていた可能性がありますね。