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宋をデフレにした鎌倉時代の日本

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 鎌倉時代は皇族・貴族から武士の時代になりましたが、それ以外にも生産性が向上し、庶民が少しづつ豊かになった時代でもあります。
 物々交換から貨幣経済への転換期でもありました。しかし、国内で貨幣鋳造しようにも大量生産できるほど、技術が進歩していませんでした。
 そこで物を輸出した際の代金として大量の貨幣(宋銭)を輸入する事になりました。

 当時の日本では、今では考えられない物を輸出していました。金・銀・水銀といった鉱物です。資源大国でした。
 それ以外にも材木も輸出していました。林業が外貨稼ぎの産業でした。

 当時、宋の北には女真族の金、その北にはモンゴル帝国がいました。
 金やモンゴル帝国の支配から逃れるため、宋へ避難した漢民族の人達の住居建設のため、木材が必要でした。
 どうやって大量の材木を運んだのかは、わかりませんが、宋には大型船を建造する技術があったため、大量輸送ができてのかもしれないです。

 ところで宋は経済重視の政策をとっていました。宋の創始者で、初代皇帝の趙匡胤は経済を重視しました。
 その後に登場しました宰相・王安石の改革で、経済がさらに発展しました。
 北方の金の軍事的脅威に対しては、お金で丸く収めるという方針だったため、金に大量の貢物をしていました。経済第一の政策でした。

 日本では、木を切れば儲かるという事で、ブラック企業ならぬ、ブラック荘園ができ、住民が訴状を出すという事態にもなりました。
 教科書にも載っています例では阿弖河荘民(あてがわのしょうみん)の訴状です。
 紀伊(現・和歌山)で農民をコキ使う悪徳地頭に対して、農民達が荘園領主を通じて六波羅探題に訴えるため訴状を書きました。
 訴状はカタナカで書かれています。当時の農民は簡単な読み書きができた上、適切な用語を使っていた事から、高い言語能力があったと言われています。
 訴えは認められ、農民達は平穏な暮らしを取り戻しました。
 
 日本は宋から貨幣を輸入しました。あまりにも大量の貨幣を輸入したため、宋での通貨が減少し、デフレが起こりました。宋の記録にあるそうです。
 宋の経済に影響を与えるほど、日本は輸出していた事を考えますと、当時から日本は貿易立国だったようですね。

 室町時代になっても、日本は自国では貨幣を鋳造せず、明から明銭を輸入していました。明をデフレにした話はないようです。

 鎌倉時代は蒙古襲来を除けば地味な時代ですが、少し踏み込んでみますと面白いですね。

 写真は大阪にあります造幣局の造幣博物館へ行った時に撮影しました。

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