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6月3日は林則徐がアヘンを公開処分した日。アヘン戦争の引き金

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 1839年6月3日は清の欽差大臣の林則徐がアヘンを公開処分した日です。これが引き金でアヘン戦争になりました。

 18世紀、清と英国が貿易を行う事になりました。
 この頃、英国では紅茶の需要が増加し、清から茶葉を購入していました。
 英国は自由貿易を望んでいましたが、清は英国から何も買いませんでした。貿易不均衡です。

 貿易不均衡是正にために英国が行ったのがアヘンの密売でした。
 英国の綿製品をインドへ売り、インドのアヘンを清に売り、清の紅茶を英国へ売る。三角貿易を行う事になりました。

 その結果、アヘンが中国大陸で蔓延しただけでなく、清はアヘン購入のため、大量の銀が流出する事になりました。
 そのため清では銀の価格が高騰し、それに伴いインフレが起こり、経済が大混乱しました。

 そこで清皇帝の命を受けた林則徐は欽差大臣として、1839年に広州へ行き、アヘン取り締まりを行いました。
 林則徐が登場する前の広東では、役人は賄賂を受け取り、アヘンの密売を見逃していました。
 しかし、林則徐は真面目で清廉潔白な人物だったため、賄賂は受け取らず、毅然とした態度で英国商人からアヘンを没収し、公開処分まで行いました。

 商品のアヘンを処分された英国商人は激怒。英国議会は報復するかで議論になりました。
 さすがに「麻薬のアヘンの密売はアカンやろ」という意見があったものの、賛成多数で清に報復する事が決まり、1840年のアヘン戦争になりました。

 アヘン戦争で清は完敗。アヘン戦争の責任をとらされた林則徐は、新彊のイリへ左遷されました。
 ところで林則徐は西洋の事を知るために、西洋列強の調査を行い、海国図志を書き始めました。
 そして林則徐がイリへ左遷される際、友人の魏源に依頼し、海国図志を編纂。完成させました。
 しかし、清の皇帝や政権幹部は危機感がなかったため、海国図志には興味を示しませんでした。

 清の政権中枢は現実逃避して内向きになっていたのかどうかは、わかりません。
 その後も自国が欧米列強に侵食されていっている事に対して無関心で、権力闘争に明け暮れていたりしました。

 しかし、海国図志は日本で重宝されました。
 島津斉彬をはじめ開明的な藩主、吉田松陰などの憂国の志士達が、西洋事情を知るための貴重な資料として貪るように読みました。
 日本でのアヘン戦争の受け止め方は「あの大国・清を破ぶった英国はどういう国なのだろか」という危機感と西洋文明に対する好奇心でした。

 海国図志は、林則徐が意図しなかった、日本への贈り物になりました。結果的に日本人にとって林則徐は恩人になりますね。

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