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聖武天皇、光明皇后の私的なお寺・海龍王寺。奈良県奈良市
6月6日、国営平城宮跡歴史公園(内裏がありました所)に隣接しています海龍王寺へ行きました。
創建は古すぎて記録にないようです。
元々は土師氏の氏寺でした。土師といえば野見宿禰の子孫にあたります。
日本最初の皇室御用達の葬儀屋で、仁徳天皇から「土師」という姓(かばね)を賜った古い家系です。
仏教伝来と共に創建されたかもしれないです。
藤原不比等が平城京の内裏に隣接した場所に邸宅を建てる際、土師氏から土地を譲り受けました。
その土地には土師氏の氏寺が含まれていました。
平城京内は碁盤の目のように規則正しく道路を作る条坊制がありました。
この制度に従えば、お寺は道路の真ん中を通る形になりますため、お寺は壊さざる得ないところでしたが、そこは時の権力者・藤原不比等。
権力に物を言わせて、道路をズラす事をしました。今も痕跡が残っています。
海龍王寺のために南北の道がズラされた痕跡(googleマップ)
720年に藤原不比等が亡くなり、娘の光明皇后が邸宅を相続しました。
その少し前の717年に吉備真備、玄昉達が唐へ留学しました。そして735年に帰国しました。
光明皇后は最新の仏教を普及させるべく、唐帰りの玄昉をお寺の住持にしました。
仏教にハマていました聖武天皇と光明皇后。海龍王寺を天皇家の私的なお寺にして、玄昉の教えを受けていました。
「海龍王」の寺号ですが、玄昉が唐から帰国する際、嵐に遭いましたが海龍王経を唱えたため、無事に種子島に上陸できた事に由来します。
その後、航海の安全を祈るお寺になりました。弘法大師は唐へ留学する前に、海龍王寺で安全祈願をしています。
境内を散策しました。西金堂(重要文化財)の中には、奈良時代に造られた五重小塔(国宝)がありました。
腐る事もなければ、虫食いにも合わずに、1300年もの間、残っているのは凄い事ですね。
次に金堂に入りました。中は撮影禁止のため撮影しませんでした。そのため中の雰囲気だけ書きます。
金堂の中には「海龍王寺」と書かれた寺門勅額がありました。奈良時代に朝廷から贈られた物です。
明治になるまで、寺門に掲げていました。1000年以上もの間、風雨に耐えたのは凄い事です。
そして鎌倉時代の伝・運慶作の彫刻がありました。鎌倉時代の有名仏師の運慶・快慶の運慶です。
余談になりますが、運慶の祖先を辿りますと、貴族でありながら仏師になった康尚がいます。康尚は仏師職の祖と呼ばれ、仏師の専門集団を組織した人物です。
さらに康尚から辿りますと光孝天皇(宇多天皇の父親)になります。運慶は血筋で見ますと光孝源氏になります。
710年に平城京遷都されました。それから1310年経ちます。それだけに奈良は、歴史が詰まった所なのを実感できますね。