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聖武天皇・光明皇后の陵墓。奈良県奈良市

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 6月6日、聖武天皇・光明皇后の陵墓へ行きました。
 同じ場所に天皇・皇后の陵墓があるのを見るのは初めてでした。

 正面から撮影していますのが聖武天皇の陵墓で、斜めから撮影していますのが光明皇后の陵墓です。

 陵墓の所に鳥居がありました。不思議な感じがしました。
 聖武天皇、光明皇后は仏教にハマり、仏法により国を鎮める「鎮護国家」を目指していました。

 以前、ブログでも紹介しましたが、聖武天皇の時代に、藤原広嗣の乱、地震などの天災、天然痘の大流行がありました。
 天然痘の大流行のため、藤原四兄弟をはじめとします朝廷首脳の相次いで亡くなり、朝廷機能が停止しかねない状態でした。

 元々、聖武天皇は気弱な性格だったらしく、次々と襲い掛かる事件や天災に対して現実逃避をしはじめ仏教にのめり込んでいきました。
 4回の遷都、全国に国分寺、国分尼寺の建設。東大寺と大仏の建設を行いました。その結果、国家財政が傾きました。
 表現は悪いですが、聖武天皇と光明皇后は、新興宗教にハマり、救いを求めるため、財布の状況を無視して壷や掛け軸を買い漁る夫婦みたいな感じでした。
 そんな聖武天皇の下で、首班だった橘諸兄をはじめとした朝廷首脳陣は、聖武天皇の迷走に頭を抱えながらも、必死に災害対策を行っていました。

 ただ、現代人の感覚で、聖武天皇・光明皇后を見る事はできません。
 今のように科学や医学が発達していなかったため、地震や疫病の原因はわからず、祟りとしか思えなかった時代です。
 その上、藤原四兄弟の死は、讒言により自殺に追い込まれた長屋王の祟りとも言われています。
 天変地異に見舞われた日本を救うため、天皇・皇后としてできる事をしていたともいえます。

 聖武天皇にとって荷が重すぎた時代だったかもしれないです。
 あと、新興宗教にハマって壷や掛け軸を買っても、二束三文にしかなりません。しかし、東大寺や大仏は当時のことを知る貴重な文化財です。

 不幸にして平重衡による南都焼討、松永秀久による東大寺焼き討ちのため、東大寺は転害門を除きますと、当時の建物は焼失してしまいました。
 大仏も台座部分を除けば、鎌倉時代、江戸時代に修復された物です。しかし、立派な観光資源として多くの人が見に行っています。
 結果的には聖武天皇の未来への投資になりました。

 奈良の大仏を拝見する際は、天変地異を鎮めたいと願う聖武天皇、光明皇后を想像してみるのも良いかもしれないですね。

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