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桓武天皇擁立の陰の立役者・藤原百川のお墓。京都府木津川市

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 6月6日、藤原百川のお墓の前を通りました。
 知らないと通りすぎてしまいそうな所でした。

 藤原百川がいなければ、平安遷都がなかったと言っても過言ではありません。桓武天皇擁立の下地を作った人物だからです。
 奈良時代の後半に遡ります。

 770年、道鏡にハマった称徳天皇が崩御しました。
 称徳天皇は、後継者指名を行っていませんでした。そのため次期天皇を誰にするかで朝廷で問題になりました。
 天武天皇以来、天武系が続いていましたが、相次ぐ政変のため、親王・王が粛清され、人材がいない状態でした。
 それでも右大臣の吉備真備達は天武系の人物を次期天皇に推そうと考えていました。

 その時、左大臣・藤原永手をはじめ、藤原百川達が目をつけたのが天智系でした。
 天智系・白壁王を次期天皇にしようと考え、なんと称徳天皇の遺言を偽造する事になりました。
 そして吉備真備達を出し抜いた形で、次期天皇に白壁王を推しました。
 あまりにも強引なやり方に激怒した右大臣・吉備真備は辞任しようとしました。ただ、白壁王から右大臣の職は続けろと言われ留任しました。
 そして白壁王は即位して、光仁天皇になりました。

 白壁王はアル中・皇族とも言われています。
 奈良時代の朝廷はドロドロとした権力闘争があり、度重なる政変で親王や王が粛清される中、白壁王は政治には無関心な上、酒の溺れ、自堕落な生活を送っていました。
 本当の酒好きで、ただのアル中だったのか、それとも政変に巻き込まれないよう、政治と距離を置いて、飲兵衛のふりして、やり過ごしたのかは謎です。
 ただ、白壁王は天皇になってから政務に励んだため、後者の可能性が高いです。

 白壁王が天皇になった時は62歳でした。当時の60代は老人でした。
 白壁王を天皇にした理由の本当の狙いは、白壁王の息子で聡明と言われた山部王(後の桓武天皇)を天皇にするためと言われています。

 段階を踏む理由は、いきなり山部王を天皇にする事ができなかったためです。
 いくら本人が有能であっても天皇になるためには、母親の家柄が重視されました。
 山部王の母親は渡来系出身だった上、天皇の息子ではないため、権威がないという事で、天皇の候補にはなっていませんでした。
 そこで第一段階として、父親の白壁王を天皇にする事で、山部王を「天皇の息子」という形にしました。その上で山部王を立太子にしました。
 山部王を天皇にすべく、裏で奔走したのが藤原百川でした。

 藤原百川ですが、山部王が天皇に即位する姿を見る事なく亡くなりました。
 その後、山部王が桓武天皇になり、長岡京、平安京と遷都しました。時代が大きく動きました。

 大きな時代の動きを起こした桓武天皇ですが、藤原百川がいなければ、桓武天皇は登場せず、平安遷都がなかったかもしれません。
 そのため藤原百川は歴史上の重要人物だと言えますね。

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