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「太公望」の話
6月20日、兵庫県西脇市を通りました時、居酒屋「太公望」を発見しました。
司馬遷の史記によりますと、太公望とは殷の紂王を倒した周の武王の時代の人物です。約3000年前の人物です。
釣り好きの人の代名詞として「太公望」が使われることがありますので、そちらの方が知られているかもしれないですね。
太公望の本名は呂尚です。周の諸侯・西伯昌(文王)が「我が太公(父親)が望んだ賢者」という事で、太公望という別名がつけられました。そのまんまですね。
史記によりますと、3000年前の殷末期。当時の殷王だった紂王は政治はそっけのちで、贅沢三昧していました。酒池肉林です。
そんな中、周の地域を治めていた諸侯・西伯昌(文王)がいました。ある日の事、西伯昌は釣りをしている老人に出会いました。それが呂尚でした。
これが太公望が釣り好きの人の代名詞になった由来です。呂尚が賢者だと見抜いた西伯昌は、呂尚を軍師に据えました。
その後、周の地を治める人物は息子の武王になりました。呂尚を軍師として酒池肉林で政治を乱していた紂王を討伐。殷王朝を倒し、周王朝が誕生しました。
そして太公望は斉の国の諸侯になりました。ここまでが史記にあります粗筋です。
ところで司馬遷の史記の内容を鵜呑みにはできません。殷王朝や周王朝初期の内容は正しいかどうかは謎が多いです。
殷末期は、司馬遷が史記を書く1000年くらい前の話です。そのため1000年間もの間、伝承や記録が正しく司馬遷に伝わっている保証はありません。
そのため、史記の殷王朝の話は創作だらけという学者もいます。
考古学の観点での解明ですが、骨に刻まれた甲骨文字の情報から、当時の様子を知る試みが行われています。
甲骨文字から浮き彫りになったのは、紂王が出したと思われる甲骨文字(命令書)が大量にあるため、実際の所、紂王は政治に追われ、酒池肉林といった贅沢三昧している余裕はなかったというのが有力になっています。酒池肉林は創作のようです。
ところで中国人が、このお店の店名を見ますと、驚くかもしれないですね。
日本人が、中国へ行って、居酒屋「蘇我馬子」や居酒屋「藤原道長」がありましたら驚くのと同じですね。
西脇市にあります居酒屋「太公望」。どんな居酒屋なのか。次回、機会がありましたら、入ってみたいと思います。