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元明天皇、元正天皇、称徳天皇、その次の女帝は。奈良県奈良市
9月に奈良県奈良市へ行った時の話を書きます。
奈良の中心街へ向かう途中、元明天皇と元正天皇の陵墓に立ち寄りました。道路を挟んで隣同士にあります。
元明天皇は平城遷都の時の天皇です。遣唐使粟田真人の進言を聞き、平城遷都の詔を発しました。
元々は天皇になる予定のなかった人物でした。持統天皇が生前譲位された後、息子が文武天皇になりました。
しかし、文武天皇は若くして崩御してしまいました。文武天皇には皇子(首皇子:後の聖武天皇)がいましたが、この時代はある一定年齢にならないと天皇にはなれませんでした。
自分の孫を天皇にするため「ばあちゃん頑張る」といわんばかりに、元明天皇が即位しました。
平城京遷都だけでなく、日本初の銅銭・和同開珎の鋳造、風土記編纂の詔、古事記の完成などがありました。
埼玉で純度の高い銅山が発見された時、お祭騒ぎになり元号が「和銅」になりました。この時に鋳造されたのが和同開珎です。
元明天皇の姉であり姑でもあります持統天皇が抜擢した藤原不比等も、元明天皇は重用しました。
しかし、大変な時代だったのか「ばあちゃん疲れた」となったようで、娘であります氷高皇女に譲位しました。元正天皇です。
女帝から女帝という継承は、この時のみです。
即位した元正天皇は、甥の首皇子が大きくなるまで頑張る事になりました。
日本書紀と養老律令の完成、三世一身の法などです。
ところで岐阜県にあります養老の滝があります。元正天皇が岐阜方面を行幸された時、滝を見た際、「醴泉は、美泉なり。以て老を養うべし。蓋し水の精なればなり。天下に大赦して、霊亀三年を改め、養老元年と為すべし」と発せられ、養老の滝と名づけられただけでなく、元号が「養老」になりました。
首皇子が大きくなり、天皇に即位できる年齢になった時、元正天皇は譲位しました。聖武天皇の誕生です。
聖武天皇は後継者に恵まれませんでした。皇子が生まれましたが夭折してしまいました。
そのため娘の阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に指名しました。女性が皇太子になったのは、歴史上、阿倍内親王だけです。
聖武天皇から譲位され、孝謙天皇が誕生しました。
この時は母親の光明皇后と藤原仲麻呂が権力を握っていたため、何もできませんでした。
何もできない状態のまま、藤原仲麻呂の策略で譲位させられることになりました。
ただ母親の光明皇后が亡くなったあと、孝謙上皇は自分を抑えつける存在がいなくなり、淳仁天皇(藤原仲麻呂の傀儡政権)から権力を奪う事を考えました。
そして藤原仲麻呂の乱(実は孝謙上皇が仕掛けたと言われています)を平定し、天皇の地位に返り咲きました。称徳天皇となりました。
称徳天皇ですが、なんと上皇時代に知り合った弓削道教を寵愛する事になりました。
女性が天皇になれる条件として、皇族男性と結婚した未亡人、もしくは独身女性がありました。独身のまま天皇になりますと結婚はできなくなります。
民間男性と結婚して、民間男性の家系に簒奪されるのを防ぐためでした。
そのため称徳天皇は独身のまま天皇になりました。中年になって男性と仲良くなった称徳天皇。
品のない表現かもしれませんが、ホストクラブに貢ぐ中年女性という感じでした。道教は法王という地位まで手に入れました。
もし、宇佐八幡宮神託事件で和気清麻呂が正しい判断をしなければ、道教によって簒奪される所でした。
独身女性を天皇にしたため、変な男に簒奪されると具合が悪い。その反省から女性天皇が登場しなくなりました。
称徳天皇から800年後の江戸時代初期。女性天皇が誕生しました。
後水尾天皇が「病気治療をしたいが、天皇の地位だと禁中並公家諸法度により治療ができない」と言って、娘に譲位しました。
800年ぶりに生まれた天皇は、明正天皇です。「元明」と「元正」の1文字つづとったためです。うそのような本当の話です。
余談ですが、称徳天皇の陵墓は近鉄・西大寺駅の近くにあります。
父親の聖武天皇が東大寺を建立し、娘の称徳天皇は西大寺を建立しました。その関係かどうかわかりませんが、陵墓が西大寺の近くにあります。
そして称徳天皇は上皇時代に出家していました。出家したまま天皇になったのは称徳天皇だけです。
女帝の時代を見ますと歴史の違った側面が垣間見えますね。
1枚目の写真が元明天皇の陵墓。
2枚目の写真が元明天皇の陵墓。
3枚目の写真が称徳天皇の陵墓。