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淀屋橋と淀屋敷跡。大阪市中央区。
10月18日、淀屋橋の近くを通りました時、淀屋の碑と、淀屋敷跡を発見しました。
淀屋橋。豪商・淀屋が私財で橋を架けた事から淀屋橋と呼ばれるようになりましたが、淀屋橋のすぐ側に屋敷があったのは知りませんでした。
現在の橋(3枚目の写真)は、昭和初期の大阪市長だった関一が御堂筋拡張のために建設した物です。
余談になりますが、関一が市長だった時、大阪市は周辺の村々を吸収合併していき、人口200万人を超える大・大阪市と呼ばれる都市になりました。この時、200万人を越える都市は大阪市だけでした。今の大通りの御堂筋、日本初の公営地下鉄を敷設しましたのも、関一が市長の時でした。50年、100年先を見通した偉大な人物でした。
大・大阪市と言われる昭和初期よりも、遥か以前の江戸時代。既に大阪は天下の台所と呼ばれる日本の経済の中心地でした。
その中で豪商・淀屋が果たした役割は大きかったです。
初代・淀屋の常安は豊臣秀吉の伏見城建築に参入したのを皮切りに、土木工事を請け負い、財をなしました。
その後、大坂夏の陣の時は、徳川家康に味方し、陣を張った際の土木工事や、戦後の後処理の土木工事を請け負い、莫大な財をなしました。
大坂夏の陣は、武士だけでなく、商人も生き残りをかけて、どちらにつくか考えていました。
その功で、淀屋は特権を得た商人として大坂で豪商として大坂の発展に尽くしました。
米市場を設立したのも淀屋です。その後、堂島米市場となり、大坂商人の知恵の結集によって、世界初の先物取引を行われるようになりました。最先端すぎる取引市場になりました。
しかし5代目辰五郎の時、贅沢の度合いが町人の域を超えているという理由で財産没収の上、所払い(大坂追放)になりました。
もしかして淀屋の財力が大きくなりすぎて、徳川幕府が警戒したかもしません。
大都会の中にも、歴史を楽しめる場所がありますね。
淀屋(よどや)の屋敷跡(大阪市のサイト)
ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて= 淀屋常安(関西・大阪21世紀協会のサイト)