Blog

新聞王のジョセフ・ヒコの故郷を散策・その2。兵庫県加古郡播磨町

ブログ

 昨日に引き続き、播磨町が生んだ偉人のジョセフ・ヒコについて書きます。
 昨日のブログでは江戸幕末にジョセフ・ヒコが播磨町で生まれ、乗っていた船が遭難し、アメリカ船に助けられ、アメリカで教育を受けた後、日本に戻り、アメリカ領事館の通訳を勤めて、その後、通訳を辞めて、外国人居留地で商売を行う事まで書きました。

 1864年、ヒコが考えたのは、日本に海外事情を伝える新聞の発行でした。
 海外から横浜にやってくる定期便から、英字新聞が送られていました。その内容を抜粋して翻訳した物を発行しようとしました。
 しかしヒコは13歳でアメリカに渡ったため、漢字が苦手でした。そこで協力者を探す事にしました。
 ヘボンの紹介で岸田吟香を紹介されました。そして出入りの洗濯屋に筆記者の紹介を頼んだ所、本間清雄が紹介されました。

 ヘボンは医者で、幕府が横浜を開港して、まもなくして日本に来た医者です。ヘボン式のローマ字の考案者でもあります。
 ヘボンが紹介した岸田吟香は、蘭学が盛んだった津山(現・岡山県津山市)出身です。目の病気になりヘボンの診察を受けたのをキッカケに、ヘボンの右腕として和英・英和辞典の編纂に協力した人物で、そのお礼に目薬の調合を教えてもらいました。
 その目薬を販売するために新聞広告を行った最初の人物で、新聞広告の立役者とも言われています。
 本間清雄は明治の外交官として活躍する人物です。ヘボンの下で英語を学んだ人物です。

 豪華な面子です。この時、ヒコ26歳、岸田31歳、本間21歳でした。3人で海外事情を伝える新聞を発行しました。
 しかし、当時は攘夷思想が蔓延していました。1862年には生麦事件がありました。そのためヒコ達が発行する新聞に関心はあっても、身の危険を感じて、購入する人はほとんどいませんでした。
 数ヶ月で廃刊となってしまいました。しかし口コミで広がった事もあり、翌年には再開しました。しかし購読者は少なく、無料で配っていました。

 その後、身の危険を感じたヒコは長崎に移り住みました。そこで長州藩士の木戸孝允、伊藤博文と面会して、アメリカの政治制度などを教えたりしていました。
 長崎といえば観光名所のグラバー邸宅があります。そのグラバーと鍋島藩の鍋島家を仲介したりしました。
 明治になり大阪の造幣局設立に関わったり、渋沢栄一の下で国立銀行の条例の編纂に関わりました。日本の大物達と接していますので凄いですね。

 そして神戸に移り製茶貿易を行ったりしました。神戸に移り住んだ時、事業資金の融資のため兵庫県から融資を受けました。この時の知事が伊藤博文でした。長崎での出会いが、後々役に立っていますので、縁を感じさせます話ですね。
 晩年は横浜で過ごし、横浜で亡くなりました。ただ、日本人でない事から、横浜の外国人墓地に埋葬されています。
 日本に生まれ、日本の発展に貢献しながらも、外国人扱いだったジョセフ・ヒコ。外国人扱いされた本人は、どういう気持ちだったのか。気になりますね。

 ところで歴史や新聞関連の素人の私なので、江戸時代にありました「かわら版」と新聞との違いは何なのか、わかりません。
 ただ、共通していえますのは、ニュースを伝える媒体です。ニュースの綴りは「news」(新しい出来事)です。
 日本人はニュースを「新聞」と訳しました。和製漢語です。いつしか紙媒体のニュースを「新聞」と呼ぶようになったと考えられます。

 ちなみに中国では「新聞」は「ニュース」で使われています。本来の和製漢語「新聞」の意味を、そのまま使っています。
 日本の新聞に当たる単語は「報紙」です。「新聞紙」と「紙」とつけて言う場合もあるようです。

 1枚目の写真は播磨町立郷土資料館にありましたマンホールの絵柄です。
 2枚目の写真は郷土資料館のパンフレットです。

Share

Category

Archive

Recent posts