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新聞王のジョセフ・ヒコの故郷を散策・その1。兵庫県加古郡播磨町
11月8日、播磨町を散策しました。播磨町の偉人「ジョセフ・ヒコ」を紹介します。
ジョン万次郎は小中学校の教科書にも出てくらい有名ですが、ジョセフ・ヒコも負けてはいないぐらいの人物です。
1枚目は播磨町の中央公民館にあります銅像です。
ジョセフ・ヒコの生い立ちを紹介しながら、播磨町にありますジョセフ・ヒコに関係します物を紹介していきます。
江戸時代後期、ジョセフ・ヒコ(彦太郎)は播磨町の農家に生まれました。
2枚目の写真が生誕の地の碑です。新島へ渡る橋の入口の所にあります。
しかし、幼い時に父親を亡くし、母親が船乗りと再婚しました。
母親は「船乗りは危険だから、船乗りにならないで」と言い聞かせ、ヒコを寺子屋に通わせました。
しかし、母親が亡くなると、義父に「船乗りになりたい」と申し出で、船乗りになりました。
船乗りになって江戸へ向かいました。その帰り、遠州沖で嵐で難破し漂流しました。この時、ヒコは13歳でした。
幸い、数ヶ月分の水と食料を積んでいたため、52日間、漂流しても生きる事ができました。
そしてアメリカ船に助けられ、サンスランシスコに到着しました。1851年4月の事でした。ジョン万次郎と似ていますね。
3枚目、4枚目の写真は正願寺にあります石碑で、一緒に船にのっていたヒコを含めた17人の似顔絵です。
この似顔絵は当時のアメリカの新聞に掲載されたものです。当時、写真を紙に印刷する技術がなかったため、似顔絵を載せていました。
ヒコを含めて17人全員を日本に送り返すため、サンフランシスコから中継地のマカオへ向かいました。
マカオで、ペリー率いる東インド艦隊と合流して、黒船に乗って日本に戻る予定でした。
しかし、運命のいたずらなのか、ペリー艦隊がやってくるのが遅れました。
その間、待ちぼうけではもったいないという事で、トーマス・トロイの誘いで、ヒコ、次作、亀蔵は再びアメリカへ渡る事になった。
そしてトーマスの厚意で3人はアメリカの船舶で働く事になりました。
ヒコはサンフランシスコから来た日本人の通訳をした際、税関長だったサンダースに働きを認められアメリカで教育を受ける事になった。
ジョン万次郎に似ていますね。そしてサンダースに連れられワシントンへ行き、ピアス大統領と面会しました。
そのためヒコは日本人で最初にアメリカ大統領に面会した人物になります。
教育を受けたヒコは商社に勤め、事業家になろうと志しました。
その後、商社に勤めたヒコはブキャナン大統領と面会。2人目の大統領との面会。驚きですね。
その後、サンダースの勧めもあり1858年にアメリカ市民権を取得しました。日本人初です。
アメリカの市民権を得た理由は、今後のヒコの事を考えて、アメリカの市民権を得た方が良いというサンダースの考えがありました。
ヒコは帰国の際に立ち寄った上海で、当時の駐日公使のハリスと面会し、日本に帰国後、アメリカ領事館の通訳として雇われました。
ハリスは日米修好通商条約の時の駐日公使でした。元々、事業をやりたかったヒコは通訳を辞め、日本で貿易商館を開きました。
しかし、当時の日本は攘夷思想が渦巻き、外国人にとって身の危険を感じる状態でした。そのためヒコはアメリカへ戻りました。
アメリカに戻ったものの、今度は当時の国務長官から日本にあります領事館の通訳として再度、任命を受けました。
その際、なんとヒコを連れて、リンカーン大統領と面会になりました。リンカーン大統領と握手しました。日本人初のアメリカ大統領との握手でした。
ヒコはリンカーンに陶酔していました。ただ、リンカーンは表向きは奴隷制度廃止を訴えていましたが、本人はその気はないどころか、アメリカ先住民を迫害する差別主義者でした。ヒコは、リンカーンの事をどう思っていましたのか興味津々ですね。
再び、日本のアメリカ領事館で通訳になりましたが、事業をやりたいヒコは、辞表を提出します。
この時、リンカーン大統領に辞表を送りました。そして外国人居留地で事業を起こしました。
明治になり、ヒコは両親のお墓を故郷・播磨町にあります蓮花寺に作りました。5枚目、6枚目の写真です。そのお墓には英語で文字が刻まれています。
ジョン万次郎、ジョセフ・ヒコ。2人が運が良かったのは、良いアメリカ人に巡りあえ、教育を受ける事ができました。
反対に、だるま宰相と呼ばれ、昭和大恐慌に対して大蔵大臣として辣腕を振るって解決し、二・二六事件の凶弾に倒れた高橋是清は、少年時代、アメリカにわたり、悪いアメリカ人に騙されて奴隷になってしまいました。
次回は、新聞王になったジョセフ・ヒコを紹介いたします。