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競馬・有馬記念と淡河八幡神社の話。兵庫県神戸市北区淡河

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 2020年9月、神戸市北区淡河へ行った時の話を書きます。
 淡河八幡神社の看板に有馬記念の名前の由来になりました有馬頼寧の説明がありました。

 有馬頼寧は明治生まれの人物で、東京帝国大学卒業後、農務官僚になりましたが、その後は政治家になり、戦前の近衛内閣では農林大臣を務めた人物です。
 戦後、A級戦犯になったものの不起訴になり、そして1955年に中央競馬会の理事長になった人物です。
 その有馬頼寧(よりやす)の功績を称え「有馬記念」となりました。

 有馬頼寧と淡河は直接の関係はありませんが、有馬頼寧の先祖で戦国時代の武将・有馬則頼が、この地を治めていました淡河氏を滅ぼし、淡河城主になりました。
 ちょっと強引な関連性ですね。しかし、踏み込んでみますと、少しも強引ではありません。

 ところで有馬氏は播磨の赤松氏の庶流で、有馬郡に領地を持っていたため、有馬と名乗っていました。
 名字(苗字)を決める際、その地名にする場合が多いです。有馬郡には有馬温泉があります。

 名字ができた経緯は、氏(うじ:血筋)だけですと、どこの誰か、わからなくなるためです。
 藤原道長の藤原は「氏」になりますが、時代が経つにつれ、藤原の氏を名乗る人物が増えてきます。
 そこで、どこの「藤原」なのかを名乗るため、住んでいる場所を名字としてつけるようになりました。
 そのため平安末期になりますと、いきなり摂関家が藤原家から一条家とか九条家になったのは、一条に住んでいた藤原。九条に住んでいた藤原と、区別するようになったためです。
 名字の「名」は名田に由来します。京都から地方に派遣された貴族が土着した際、自分の所領や勢力範囲の地名を名字にする事が多かったです。
 武士でも新しい土地へ行った時、新しい土地の地名を名字にしたりしていました。
 長州の毛利元親の「毛利」は鎌倉の毛利荘に由来します。毛利家の初代は、鎌倉時代、毛利荘が所領だったためです。

 ところで有馬氏は、赤松氏の庶流ですが、足利家の親戚でもあります。そこを辿りますと河内源氏になり、最後には清和天皇につながります。
 有馬記念のレースの時は、お目当てのお馬ちゃんだけでなく、有馬温泉、有馬頼寧、河内源氏などを連想されてみてはいかがでしょうか。

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