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創建は成務天皇の時代? それとも欽明天皇の時代? 與位神社。兵庫県宍粟市山崎町

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 11月22日、山崎町にあります與位神社へ行きました。
 播磨一宮であります伊和神社とつながりがある神社です。
 祀神は、荒ぶる神・素盞嗚命です。

 巨木に囲まれたいました。狛犬をみますと、妙にかわいかったです。尻尾の、かわいい感じがしました。そして拝殿の柱にも狛犬がいました。
 境内にはライオンの像が奉納されていました。祀神の素盞嗚命を連想しそうです。

 神社の由緒書きの看板を見ましたら、創建は成務天皇の時代という言い伝えと、欽明天皇の時代という言い伝えがあると書いていました。
 成務天皇は第13代天皇で、欽明天皇は第29代天皇で、時代は異なりますが、欽明天皇は聖徳太子の祖父にあたる人物なので、聖徳太子の時代よりも古い事は確かのようです。

 成務天皇は影の薄い天皇です。
 日本書紀には、以下の2つの事しか書かれていません。
 1つ目は、後の国司、郡司にあたる役職を置いて、地方を統治した事。
 日本書紀には「先帝(景行天皇)は聡明で武芸に優れ、天命により皇位につかれ、人々は従ったが、人民の中には穏やかでないものがいました」と書いています。その原因を、成務天皇はそれは国郡に長(おさ)がいない上、県邑に首(おびと)がいないためだと考え、国、県に長を置いたという事です。
 2つ目は武内宿禰を大臣にした事です。歴代の天皇に仕えるスーパー武人です。

 ところで天命を受けた人物が天子として天下を治める。古代より中華皇帝が統治する正統性を示すときに使われます。
 本当に成務天皇の時代に天命とか天子という発想があったかは謎ですが、日本書紀は720年に完成していますので、唐から伝わった発想を加えている可能性はあるかもしれないですね。

 欽明天皇は聖徳太子の祖父です。この頃、日本と朝鮮半島南部の百済とは友好関係にありました。
 日本書紀には、百済の聖明王は、欽明天皇に使者を送りました。欽明天皇との面会の際、お経を渡しました。欽明天皇は家臣を集めて仏教を日本で広めるかどうかの議論になりました。
 蘇我稲目は仏を祀ると主張し、物部尾輿と中臣鎌子は、古来からの神々が起こるからやめるべきと主張しました。

 教科書には載っていないのですが、百済王の使者は「難解で周王、孔子が知り給う事がなかった・・・」と書いています。
 周王や孔子が理解できない難解な物を、どうやって理解したのか、気になりますね。
 あと史実では周王や孔子の時代は、まだ中国には仏教は伝来していません。なぜ周王、孔子が出てきたのかも不思議ですね。

 欽明天皇は、とりあえず仏像を祀る事を許可しましたら、疫病が流行りました。物部達は「天罰だ」と言って、仏像を川に投げ、お寺を焼いてしまいました。ここまでは教科書に書いていますが、後日談があります。
 お寺を焼いてしまった後、日本書紀には「物部達がお寺を焼いた後、宮の大殿に火災が起こった」と書いています。
 仏のバチがあったのかもしれません。そのあと、蘇我稲目が物部達に「ほれ、バチがあたっただろ」というやりとりがあったのか、なかったのか。その辺りの話は日本書紀には記述されていません。

 日本書紀を見ますと、面白いことがわかりますね。

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