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写実的に描かないのは神への遠慮? ビザンツ帝国のモザイク画
昨日のブログで夙川カトリック教会の話題を書きました際、トルコ共和国の博物館・アヤソフィアにありますモザイク画の話を紹介しました。
このモザイク画ですが、写実的ではなく、平面的な感じがします。
これは画家の腕が問題でなく、意図的に写実的に描いていないためです。
古代ギリシャ、古代ローマ帝国では芸術が発展しました。
しかしキリスト教が興り、ローマ帝国の国教になってからは、文化・芸術が衰退していきました。
神の教えが全て、神を超えてはならないなど発想が蔓延してきました。科学も芸術も聖書に則る必要がでてきました。
そのため写実的な絵を描いたり彫刻を彫るのは、「神の目」を通してみた姿となってしまうため、意図的に平面的な絵になったりしました。
古代ギリシャ、古代ローマが育んだ芸術、科学、文化などが衰退していく中、受け皿になったのは、イスラム社会でした。
バグダッドを首都にしたアッバース朝が興りました。この辺りの地域は豊かな場所だったため経済力もありました。
特に5代目カリフのハールーン=アッラシードは、文化・芸術を好み、文化振興を奨励しました。
学術文化センターを建設し、古代ギリシャ文化、古代ローマ文化の文献や芸術作品を集め、アラビア語に翻訳していきました。
これが830年に完成した知恵の館になっていきます。
この時、アッバース朝は製紙技術を持っていました。
756年、アッバース朝と唐と戦い(タラス河畔の戦い)で、唐を破りました。唐の捕虜の中に製紙技術を持った人物がいましたため、中東に製紙技術がもたらされました。それまでは希少価値の高いパピルスや羊皮を紙として使っていましたので、比較的、安価な紙が使えるとなりますと、記録できる文章が増えてきます。
インドにも地理的に近いため、インドの文化も入ってきました。その中で代表的なのは数字のゼロの存在です。ゼロはインドで発見されました。
そしてアラビア数字の原型もインドから入ってきました。それをアッバース朝が改良し、今のアラビア数字になりました。
豊かな文明のアラビア世界。その一方で暗黒のヨーロッパ世界がありました。
変化が起こったのは1095年のクレルモン公会議です。
教皇ウルバヌス2世が召集した会議で、十字軍遠征のための会議です。
十字軍は西ヨーロッパによりますアラビア世界の侵略戦争ですが、その一方で西ヨーロッパ社会がアラビア世界と接近する機会にもなりました。
アラビア世界と接する事で、古代ギリシャ文明、古代ローマ文明の文献や情報が流入するようになりました。
そして古代ヨーロッパの文化に回帰する動きがでてきました。これがルネサンスです。
もし、アッバース朝が文化・芸術に無関心でしたら、今頃、古代ギリシャ、古代ローマの事がわかりません。
ソクラテス、プラトン、アリストテレスといった古代ギリシャの哲学者や、中学・高校で習いました図形の証明問題も埋もれたままかもしれません。
そしてゼロやアラビア数字がなかったかもしれません。アッバース朝のお陰で古代ギリシャ、古代ローマの素晴らしい文化が現代に伝える事ができています。
巷で「キリスト文明が進んでいて、イスラム文明は遅れている」を見かけることがありますが、世界史をのぞいていますと、そんな事がない事がわかりますね。