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小野妹子、国書紛失の大失態。でもお咎めなし。日本書紀

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 先日の日曜日はどこも行きませんでしたのでネタがありません。
 そのため今日も日本書紀の話を書きます。

 遣隋使として小野妹子を隋に派遣したのは小学校や中学校の歴史で習いました。日本書紀には推古天皇の章に書かれています。
 しかし、意外な事に、小野妹子が隋へ訪問し、隋の皇帝・煬帝とのやりとりは日本書紀には書かれていません。
 日本書紀には、いきなり「小野妹子は隋から帰国した」と書いています。

 小野妹子の大失態が書かれています。なんと隋の皇帝・煬帝から預かった国書を紛失するという事態です。
 日本書紀には「帰国途中、百済に立ち寄った際、百済人に国書を奪われた」と書いています。
 しかし、続けて「お咎めなし」とも書いています。理由の1つとして小野妹子と一緒に隋の役人(裴世清)もいたため、お咎めを行う事で、国書紛失がバレる事が具合が悪いとなっています。

 日本が隋の皇帝・煬帝へ送った国書の内容。煬帝が日本へ送った国書の内容。どちらも日本側の文献(日本書紀)では不明です。

 煬帝が激怒したと言われる「日出ずる処の天子が、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」ですが、隋書と呼ばれる中国側の歴史書に書かれています。
 煬帝は小野妹子から渡された書に対して「蛮夷の書は無礼」とし、「こういうものを見せるな」とも言っています。
 中華皇帝にとって、中華帝国の勢力が及ぶ範囲には、天子が1人(皇帝自身)となっています。天子2人を認めるわけにはいきません。
 そのため「日本とはなんと生意気な!」と印象が強かったのか、隋書の倭人伝に記されたのかもしれません。

 ここで2点、疑問が出てきます。
 1点目は、日本側からの国書の内容が「日出ずる処の天子が、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」だけだったのか。
 他にも書かれているのではないだろうか。ただ、隋書にも詳細は書かれていません。
 2点目の疑問は、煬帝は気分を害したものの、「倭国は捨て置け」とは言いませんでした上、小野妹子らを無礼千万といって処刑する事もありませんでした。
 それどころか裴世清という役人を日本に送りました。

 隋書には興味深い事が書かれています。日本について「新羅・百済は、みな倭を大国で珍物が多い・・・」と書いていることです。
 この頃、煬帝は高句麗攻略を考えていました。結果を先に書きますと3回、高句麗討伐に行き、3回とも失敗しました。これが隋滅亡への要因の1つになったとも言われています。

 ここで勝手な推測ですが、高句麗攻略を考えていた煬帝にとって、大国という噂される日本を味方にした方が賢明と考えたかもしれません。
 そのため日本偵察のために裴世清を送り込んだかもしれません。

 その一方で、煬帝から預かった国書ですが、日本にとって具合の悪い内容が書かれていた可能性があるかもしれません。
 推古天皇の事を天子と認めないという内容かもしれません。もし、そうだとしますと推古天皇の権威失墜につながります。そのため具合の悪い事を隠すため、小野妹子は「紛失した」と体良く逃げた上、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子も黙認した可能性があるかもしれません。

 もちろん日本書紀も隋書も全てが史実どおりの記述とは限りませんので、内容を鵜呑みにはできません。
 ただ、日本と隋との間で、どんなやりとりが行われたのか、興味津々ですね。

 写真は滋賀県大津市の唐臼山古墳(伝:小野妹子の墓)です。2018年7月に撮影しました。

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