Blog

皇室の菩提寺・泉涌寺。京都市東山区

ブログ

 12月13日、京都の御寺・泉涌寺へ行きました。皇室の菩提寺のため御寺と呼ばれています。
 泉涌寺の名前の由来は、1218年に伽藍を造営している際、清水が湧き出たため「泉涌寺」と改名されました。

 1枚目の写真の入口の大門。重要文化財です。
 2枚目の写真の仏殿です。仏殿には三尊仏(阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩)が並んでいました。中は撮影禁止のため、雰囲気だけお伝えします。
 三尊仏は、現代の仏・阿弥陀如来、過去の仏・釈迦如来、未来の仏・弥勒菩薩です。未来の仏の弥勒菩薩ですが、登場するのは56億年後です。太陽の寿命があと50億年と言われていますので、太陽の爆発から地球の生命を守ってくれる弥勒菩薩といった所でしょうか。
 この三尊仏は鎌倉時代の仏師・運慶作と言われています。運慶は光孝天皇の源氏になります。光孝天皇の玄孫・康尚は従五位下の貴族でしたが、急に仏師に目覚め仏師になりました。貴族のお遊びではなく真面目に仏師の道を開いたため、仏師職の祖といわれています。その康尚の子孫が運慶になります。皇室の菩提寺に、天皇家の血を引く仏師が作成した三尊仏。凄いですね。

 境内には四条天皇をはじめとした歴代の天皇の陵墓があります。3枚目、4枚目の写真です。陵墓名は月輪陵(つきのわのみささぎ)です。
 祀られています天皇の中には、今の天皇家の直系につながります光格天皇も祀られています。

 四条天皇。2歳で天皇に即位されました。11歳の時、女官達にいたずらをするため、廊下に罠を仕掛けました。まだ子供だったため、やんちゃな所がありました。
 しかし、自分が仕掛けた罠に、自分がハマって頭部を強打。そのまま崩御されました。

 四条天皇の崩御後、次の天皇を誰にするかで摂政の九条道家は順徳天皇の皇子の即位を画策しました。
 しかし承久の乱以降、幕府の意向を無視して天皇を決める事ができなくなった朝廷。摂政の画策に対して、幕府執権・北条泰時が反対し、幕府が推す後嵯峨天皇になりました。
 この後嵯峨天皇は優柔不断な所があり、息子・後深草天皇と亀山天皇が対立した際、どちらの家系を家長にするかを決めずに崩御されました。
 そして当時、蒙古襲来もあり、幕府は厄介な事に首を突っ込みたくない事から両統迭立になり、後醍醐天皇の登場や、南北朝の争いの要因になりました。
 もし、四条天皇が大人になって皇子ができていたら、四条天皇の家系が皇統を継ぎ、南北朝の争いはなかったかもしれません。
 余談ですが、後嵯峨天皇の息子・宗尊(むねたか)親王は、皇族初の将軍になった人物です。

 本坊に入りました。皇族や皇室関係者が来られるため、天皇・皇后両陛下、皇族や勅使、女官など部屋の見学できます。
 各部屋のふすま絵などが芸術作品でした。

 境内には楊貴妃観音堂があります。南宋時代に作られた楊貴妃観音像が安置されています。
 1230年に湛海律師が南宋から持ち帰った物です。楊貴妃観音は、容貌の美しさから、楊貴妃が亡くなった時、悲しみにくれる玄宗が造らせたという伝承に由来します。そのため本当に楊貴妃の姿なのかどうかは謎です。

 歴史を感じる事ができるお寺ですね。

Share

Category

Archive

Recent posts