Blog

明智光秀の終焉の地。京都市伏見区小栗栖

ブログ

 12月20日は京都市伏見区を散策していました。
 明智光秀の胴塚を発見しました。終焉の地の明智藪にも行きました。
 明智藪は日が暮れた後だったため、フラッシュを使って撮影しました。暗くなったのが手伝って、明智光秀の無念と怨念という少し怖さが伝わってくる写真になりました。

 ご存知の通り、明智光秀は本能寺の変を起こしました。
 しかし、豊臣秀吉の中国大返しという必殺技を行ったため、明智光秀は仰天しました。
 そして山崎の合戦(別名:天王山の戦い:京都府乙訓郡大山崎町)で破れ、落ち延びていきますが、小栗栖(おぐるす)の地で農民達に襲われました。
 深手を負った明智光秀。もはやこれまでと考え切腹しました。そして家臣に介錯をさせました。

 首と胴は別々に埋葬されたようで、首塚は東山区にありますが、胴塚は伏見区小栗栖にあります。
 ただ、あくまでも「伝」なので、実際に首が首塚に、胴が胴塚に埋葬されたのかどうかは不明です。

 明智光秀が本能寺の変を起こした動機ですが、現在もわかっていません。そのため色々な説が飛んでいます。
 最近、「豊臣秀吉が事前に本能寺の変を察知していたため中国大返しができた」という説が、科学的に証明できたようです。
 【科学が立証】豊臣秀吉「本能寺の変を事前に知っていた」説は正しかった(現代ビジネス:講談社)
 将来、さらに研究が進んだり、新資料の発見により、明智光秀の動機の真相に迫られる事を期待したい所ですね。

 ところで明智光秀は農民の襲撃に遭いました。戦国時代、落ち武者狩りは黙認されていました。
 落ち武者刈りを行う側は金品が強奪できる上、勝者にとっては敵の武将を探したり殺す手間が減らす事ができました。双方の利害の一致のため落ち武者刈りは普通に行われていました。
 しかし、ひとつ疑問がでてきます。明智光秀を襲った農民は、どうやって明智光秀だと判別したのか。今のように写真がない時代です。
 FAXもネットもない時代なので、指名手配の似顔絵が瞬時に広がる事もありません。そう考えて見ますと、どうやって明智光秀とわかったのか不思議ですね。
 もしかしますと誰かわからないけど、落ち武者だから襲いかかったのかもしれません。

 今年の大河ドラマは、コロナの影響で、途中、撮影ができず、放送が中止になっていました。その分、来年の2月まで放送されます。
 ドラマでは明智光秀の動機をどう描くのか、来年の楽しみですね。

Share

Category

Archive

Recent posts