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中臣遺跡。京都市伏見区

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 12月20日、伏見区を散策していますと中臣遺跡を発見しました。
 今では、ちょっとした公園になっています。そして近くにありますマンションの一角には中臣遺跡の説明の碑がありました。
 中臣といえば、乙巳の変で中大兄皇子と一緒に蘇我入鹿を殺害した中臣鎌足を連想しそうですね。

 説明書きによりますと、この辺りは中臣鎌足を輩出した中臣家の本拠地だったそうです。
 当時は蘇我、物部といった豪族がいました。中臣も豪族の1つになります。
 そして説明書きには、5世紀中期から6世紀初頭の古墳から百済の物と思われる甕(かめ)が発見されたと書いています。
 5世紀中期から6世紀初頭は、日本と百済は友好国だったと言われています。もしかして百済との関係を示す出土品の可能性があります。
 日本書紀の欽明天皇の章で、百済の聖王から仏像が送られたことが書いています。日本書紀の記述が正しければ、出土品は百済との交流を裏付ける資料になりますね。

 ふと気づいた事ですが、山科が中臣の本拠地なら、中臣鎌足は山科から飛鳥の都に馬で通勤していたのか。それとも飛鳥に住居を構えていたのか。
 馬だったとしても山科から飛鳥まで距離がありますので、ちょっと現実的ではありません。その辺りも知りたくなりますね。

 余談ですが、私が学校の歴史の授業で蘇我馬子、小野妹子を習った時、「男性なのに名前に『子』がついている」と驚きました。
 大人になって知りましたのは、中臣鎌足の別名は中臣鎌子だったことです。

 そして、もう1人、中臣鎌子がいます。欽明天皇の時代、蘇我稲目が仏教導入を推進を主張し、物部尾輿が仏教導入に反対しました。反対する側に中臣鎌子がいました。中臣鎌足とは別人物です。

 将来、古代史の調査が進み、古代の実像が見えてくることを期待したいですね。

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