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六地蔵の名前の由来のお寺・大善寺。京都市伏見区。
12月20日、伏見区を散策していますと大善寺を発見しました。
境内を散策しますと地蔵が安置されています六角堂があります。
ところで京都市と宇治市の市の境辺りの地名を六地蔵と呼びます。
この大善寺は六地蔵の地名の由来になったお寺です。
大善寺は中臣鎌足(藤原鎌足)の息子・定彗が705年に創建しました。
1300年前なので歴史を感じますね。定彗は藤原不比等の兄にあたる人物です。
道昭と一緒に留学生として唐へ渡った人物です。道昭は三蔵法師(玄奘)に大変気に入られた人物ですが、定彗はどうだったのか興味深い所です。
705年当時は、藤原京(今の橿原市付近)が都で、京都市伏見区は都から遠く離れています。
しかし、昨日のブログで書きましたが、山科の地が中臣家の本拠地だったため、本拠地の近所に建立したという見方ができるかもしれません。
六地蔵の名前ができたのは平安時代です。平安時代、小野篁が六体の地蔵を作成したのがキッカケでした。
小野篁が熱病に侵されて苦しんでいる時、地獄に落ちた夢を見ました。その時、地獄で人々の苦難を救済している人物がいました。
それが地蔵菩薩でした。地蔵菩薩は、地獄だけでなく、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上をめぐりながら、縁のある人を救っていると言いました。6つの世界ですね。
小野篁は熱から回復した後、六体の地蔵を作成し、大善寺に安置しました。
余談ですが小野篁は小野妹子の子孫と言われています。
平安時代末期になり後白河上皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都に入る街道の入口(六ケ所)に六角堂を立てて、六地蔵にありました六体の地蔵を1体づつ地蔵を安置しました。
大善寺は京都と奈良と結びます奈良街道沿いにあり、奈良から京都へ入る入口という事で、大善寺には1体の地蔵が安置されています。
余談ですが西光法師は鹿谷事件の首謀者の1人です。
しかも捕縛された後、平清盛をボロカスに批判したため、平清盛が激怒。あえなく切られました。まさに「口は災いの元」ですね。