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鳥羽伏見の戦いの勃発の地。京都市伏見区
12月27日、京都市伏見区の鳥羽離宮跡公園の近くを散策していました。
鳥羽伏見の戦いの勃発の地の看板と石碑がありました。
このあたりは鳥羽離宮があった場所です。
日本初の院政を行った白河天皇が、譲位したのちに過ごした御所です。広大な敷地面積でした。
鳥羽天皇も、上皇になった時、この地に御所を構えた事から、贈り名が「鳥羽」になっています。
1867年、徳川慶喜は大政奉還しました。しかし政権を手放す様子はありませんでした。倒幕という名目つぶしのために大政奉還しただけでした。
そこで倒幕派の公家・岩倉具視が工作し、王政復古の大号令となりました。(捏造という噂もあります)
そして徳川慶喜に対して所領を返還するように命じましたが、徳川慶喜は、のらりくらりと対応しました。
業を煮やした倒幕派の薩長。西郷隆盛が幕府を挑発するため、江戸で挑発行動を起こしました。
そして挑発行動を起こした人物を匿いました。
薩摩の行動に対して、幕府派だった庄内藩が「薩摩藩はけしからん」と怒り、江戸の薩摩邸を襲いました。
そして幕臣からも「薩摩を倒せ」という声があがり、徳川慶喜も動かざる得ませんでした。
そのため幕府は大坂から京都に向けて兵を出しました。薩摩軍は鳥羽離宮跡公園の近くにあります城南宮に陣を構えていました。
そして鳥羽の地で幕府と対峙。薩摩藩からの大砲が合図となって合戦が始まりました。
兵力は幕府軍の方が上でしたが、連携の悪さなどから、薩長(新政府軍)が勝利を収めました。
よく薩長は近代化されていると言われていますが、幕府軍もフランスの軍事顧問団をやとっていて近代化を行っていました。
そのため近代化の優位性で勝敗を分けたかどうかは、わかりません。
それだけではありません。この時、薩長(新政府軍)は錦の御旗を掲げました。
朝敵になると恐れた幕府軍は戦意喪失で総崩れになりました。
その上、徳川慶喜は水戸家出身。尊王の藩で朝敵という汚名を着せられるとは不本意極まりないため、大将が大坂から船で江戸に逃げるという始末でした。
錦の御旗。城南宮の説明では「城南離宮の馬場で行う流鏑馬にことを寄せられ、兵を募り、錦の御旗を配った」と書いています。
もし、城南宮の説明通りですと、錦の御旗が生まれた地で、錦の御旗が大活躍というわけです。
錦の御旗を考案したとされる後鳥羽上皇は多才な人物です。武芸大好き、文学にも造詣が深いため藤原定家と交流がありました上、なんと刀鍛冶まで行い、自分で鍛えた刀を褒美に与えた話もあります。菊の御紋も後鳥羽上皇がデザインしたと言われています。
しかし、承久の乱では、東国の御家人達には権威は通用しませんでした。生きるか死ぬかの武家社会。損得勘定で考えるため、権威よりも鎌倉幕府から確実な褒章をもらえる方を選びました。そのため承久の乱で後鳥羽上皇は敗北し、流罪になりました。
しかし江戸時代になり、徳川幕府は自己の正統性を示すため、朝廷の権威を上げていき、朝廷から委ねられた政権という形をとっていました。
朝廷の権威は相当高くなりました。それを薩長(新政府軍)は、それを逆手にとりました。
後鳥羽上皇と明治維新。時代は異なりますが、意外な所でつながっていますね。