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近衛天皇陵。京都市伏見区

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 12月27日、近鉄竹田駅付近になります近衛天皇陵へ行きました。
 近衛天皇陵は、天皇陵の中で唯一、多宝塔がある陵墓です。
 立派な多宝塔があるため、凄い業績を残した天皇という印象がありますが、実際には業績はありませんでした。
 それどころか藤原家のお家騒動に巻き込まれた上、17歳で病気で崩御する、かわいそうな天皇でした。

 鳥羽上皇の息子として生まれた近衛天皇。鳥羽上皇は近衛天皇をかわいがりました。
 近衛天皇には、異母兄(崇徳天皇)がいましたが、鳥羽上皇は「俺の子じゃない。あのエロ爺の子だ」といって冷遇していました。
 あのエロ爺は白河法皇の事です。白河法皇は孫の鳥羽上皇の后(藤原璋子)を奪ったとも言われていますし、白河法皇は愛人(藤原璋子)を孫の嫁にしたとも言われています。そのため生まれた子供が誰の子なのかがわからない状態のため、崇徳天皇の実際の父親は白河法皇ではないかといわれています。
 そして白河法皇は長生きしたため、孫の鳥羽天皇が即位しても何ひとつ自由にさせてもらえなかったため、祖父の白河法皇の事を嫌っていました。
 でも、崇徳天皇には罪がありませんので、鳥羽上皇による八つ当たりでした。

 鳥羽上皇は崇徳天皇を譲位させて、近衛天皇は3歳で天皇に即位しました。
 この頃、摂関家の藤原家内でも権力闘争を行っていました。藤原忠通(兄)と藤原頼長(弟)が対立していました。
 双方が娘を12歳の近衛天皇の入内させました。どちらを優遇しても大変な事になります。しかも12歳。厄介な事に巻き込まれた近衛天皇でした。

 近衛天皇は生まれつき病弱で、15歳で失明しそうになりました。そして17歳で崩御しました。そのため何も業績を残せませんでした。

 次期天皇を巡り、崇徳上皇は自分の息子を推しましたが、鳥羽上皇は息子の後白河天皇を即位させました。
 鳥羽上皇の崩御後、崇徳上皇と後白河天皇が対立が鮮明となり、保元の乱につながりました。
 ところで保元の乱は、娘を近衛天皇に差し出した藤原忠通と藤原頼長の兄弟も両者別れて、崇徳上皇と後白河天皇が対立に加わりました。
 平家も源氏も加わりました。
 
 時代の転換期に生まれ、権力闘争に翻弄され、若くして崩御。かわいそうな感じがしますね。

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