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方広寺の鐘。徳川家康がイチャモンをつけた鐘。京都市東山区

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 12月27日、京都市東山区にあります方広寺へ行きました。豊臣秀吉を祀った豊国神社の隣りにありますお寺です。
 このお寺の鐘は、徳川家康がイチャモンをつけたので有名です。方広寺鐘銘事件です。

 1614年、方広寺のお寺の鐘が鋳造されました。
 鐘に刻まれた文字に「国家安康」と「君臣豊楽」が問題になりました。
 徳川家康は「国家安康」を見て「俺の名前を切るのか」と言い、「君臣豊楽」を見て「豊臣が楽しく栄えるのか」と言いました。
 名前を分断されるのは侮辱だというイチャモンですが、少し歴史の話をする必要があります。
 特に明治になるまでは、公家や武士の名前を人前で言うのは憚れる時代でした。特に身分の高い人の場合はそうでした。
 平安時代、清和天皇の名前が「大伴」だったため、大伴氏は「陛下のお名前を姓にするのは、恐れ多い」となり「伴」になりました。
 時代劇の水戸黄門で、格さんが印籠を見せながら「このお方をどなたと心得る。前の副将軍・水戸光圀公にあらせらるぞ」の台詞がありますが、家臣が主君の名前を言う事は大変失礼にあたる行為のため、実際にはありえない台詞です。

 この頃、徳川家康は何が何でも豊臣を滅ぼしたい。そのための口実を欲しがっていました。
 丁度、イチャモンをつけるのに良い文言を見つけたというわけです。徳川家康としては「効果抜群のイチャモンができた」と喜んでいたかもしれません。

 もちろん徳川家康が見つけたのではなく家臣が見つけたのですが、鐘に刻まれた長い文章の中からよく見つけたと感心してしまいます。
 そして口実を得た徳川家康。大坂冬の陣につながっていきました。

 イチャモンをつけた鐘ですが、なぜか溶かされる事なく、地面に置かれ、放置されたままでした。
 「縁起の悪い鐘は消してしまえ」ではなかったようです。その辺りの徳川家康の心境を知りたい所です。
 そして明治になって鐘楼が再建された時、現在のようになりました。

 学校で習いました話の場所へ行きますと、歴史が面白くなりますね。

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