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チャルディランの戦い。中東版・長篠の合戦。

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 1月3日放送の大河ドラマ「麒麟がくる」で、1575年の長篠の合戦の単語が出てきましたが、戦闘場面が出てきませんでした。
 戦闘場面が出てきますと少し盛り上がりますが、明智光秀とは直接関係ないので、仕方ないですね。

 ところで長篠の合戦は、戦い方を変える転換期と言われています。
 武田騎馬軍に対して、鉄砲隊の織田・徳川の連合体が勝利したため、鉄砲の世の到来を証明した戦いと言われています。

 鉄砲の到来を告げる戦い。日本に限ったことではありません。中東でもありました。
 1514年、オスマン帝国とサファヴィー朝との間で行われましたチャルディランの戦です。

 サファヴィー朝は騎馬軍を使った戦いをしていましたが、オスマン帝国は火器を用意。鉄砲や大砲をぶっ放す戦いをしました。
 そしてオスマン帝国は勝利しました。火器の威力を戦場で示した戦いのため、まさに中東版・長篠の合戦といった所です。

 オスマン帝国はイスラム教の国でしたが、多民族国家でもありました。自国に危害を加えない場合は、ユダヤ教徒もキリスト教徒も受け入れていました。
 1492年、イベリア半島でレコンキスタ(失地回復運動)が終わり、イスラム教徒を追い出したと同時に、ユダヤ教人追放令を出し、ユダヤ教徒も追い出しました。
 そのとき、受け皿になった国の1つがオスマン帝国でした。オスマン帝国はユダヤ教徒から高度な技術や文化を吸収しました。この時にイスタンブールに逃れたユダヤ教徒は、スペインに帰れる日を夢見て、スペイン語を受け継いできました。500年以上たった現在でもスペイン語を話すユダヤ教徒がいます。
 異教徒、異文化から良い物を貪欲に吸収する。この姿勢がオスマン帝国拡大につながったと言われています。

 ところで長篠の合戦で、鉄砲の三段構えの話は有名ですが、近年の研究で、三段構えはなかったと言われています。
 ただ、織田信長は経済重視の政策をとり、経済力によって鉄砲といった新しい物を取り入れたのは間違いありません。

 日本史を見ながら、同時代の世界を見ますと、同じ事が行われていますだけに、人はみんな考えることは一緒だと感じますね。

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