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オスマン帝国はバルカン半島で大きくなった話。
1953年1月13日は、チトーが旧・ユーゴスラビア連邦共和国の大統領に就任した日です。
バルカン半島といえばヨーロッパを連想しますし、オスマン帝国といえばアジアやトルコ、イスラム教を連想します。
過去の学校の歴史でも「オスマン・トルコ」と教えていました。
しかし、近年では「オスマン帝国」という表記に変わりました。トルコ人の国と断定できない点です。
オスマン帝国の勃興時、アナトリア半島(現在のトルコ)の西の端にいました。
アナトリア半島を統治していましたセルジューク・トルコの勢力が落ち、睨みがきかなくなったため、群雄割拠しました。オスマン帝国もその1つでした。
ただ、オスマン帝国の建国者は誰かとなりますと不明です。群雄割拠の時代、まさか帝国になるとは思っていなかったため、記録がとられていなかったです。
当初はアナトリア半島で勃興したオスマン帝国ですが、その後、バルカン半島に進出。バルカン半島に首都を移転しました。
バルカン半島で力をつけていき、その後、アナトリア半島に勢力を伸ばしていきました。
当時、オスマン帝国に従った諸侯達ですが、必ずしもイスラム教ではありませんでした。キリスト教徒の諸侯もいました。
どっちについたら生き残れるか。オスマンについた方が得だという判断でした。
反対に、ビザンツ帝国の傭兵もキリスト教徒だけでなく、イスラム教徒もいました。宗教だけで歴史を見ますと、見誤る例ですね。
1453年、メフメト2世がビザンツ帝国を滅ぼしました。首都をコンスタンチノープルへ移転させました。
ところで「オスマン」は、記録に残っている指導者の名前です。その父親はエルトゥールルです。(史実なのかどうかは不明ですが)
1890年、和歌山の串本沖で遭難したエルトゥールル号は、そこから名づけられています。
ところでユーゴスラビアは3つの宗教の国といわれていました。キリスト教(カトリック、正教)、イスラム教です。
1517年、オスマン帝国がメッカなどのアラビア半島南部を統治して以来、イスラム国家としての色彩を深めていきました。
そして自然とオスマン帝国内でイスラム教になる人が出てきたり、帝国内の移動で、バルカン半島に移動したイスラム教徒もいたでしょう。
そのためバルカン半島にイスラム教徒がいても不思議ではありません。もちろん、キリスト教徒、ユダヤ教徒も多くいました。
普段、バルカン半島は縁遠いですが、固定観念をはずして、少し歴史を見ますと、思いもよらぬ話が出てきますね。