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勤王攘夷の志士・本間精一郎の最後の地。高瀬川沿い。京都市

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 以前、京都市の繁華街を流れています高瀬川を散策した時の話を書きます。
 本間精一郎の遭難の地の看板がありました。立誠ガーデンヒューリック京都の近くです。

 本間精一郎。坂本龍馬、西郷隆盛、桂小五郎といった有名人の中に隠れていますが、勤王志士として活動していました。
 私自身、本間精一郎の事を全く知らなかったため、どんな人物なのか興味を持ちました。看板の説明書きの概略を紹介いたします。

 特に、どの藩にも属さなかったため自由に動けた上、口が達者だったため、京都で公卿や薩摩・長州の藩士にも遊説し、尊王攘夷思想を説いていました。
 しかし、寺田屋事件(注1)が起こりました。薩摩藩の国父・島津久光による尊王攘夷派の粛清です。それ以来、本間精一郎も活動を封じられました。
 それ以来、酒に溺れ、仲間を罵声するようになり、周囲から嫌われるようになりました。
 そして先斗町の料亭で遊び、四条の料理屋を出た後、何者かに殺害されました。

 ここで興味深い事があります。殺される前の行動であります「先斗町の料亭で遊び、四条の料理屋を出た」です。
 今も昔も料亭は、庶民が行ける場所ではありません。お金を持っている人物です。そのお金はどこから得ていたのかです。
 本間精一郎は、越後国寺泊(現:長岡市)出身で、裕福な家に生まれています。実家は酢、醤油の醸造を営む豪商でした。
 本間精一郎誕生の地 地域文化データベース(新潟文化物語)

 殺害された理由は不明ですが、一説には同士から疎まれただけでなく、贅沢三昧していたため、貧乏な下級武士や浪士から妬みの対象になったようです。
 ほかにも看板には「公卿に遊説」と書いていました。公家と面会できるとなれば、それなりの信用が必要になります。どういう人脈だったのか、気になりますね。本間精一郎の事を調べていきますと、人物像が見えてくるかもしれないですね。

 幕末維新。普段、光が当たらない人物を着目しますと、色々な人がいることが実感できますね。

(注1) 寺田屋事件は、ほかにも坂本龍馬を襲った事件もあります。2つありますだけに、注釈を入れないと混同しそうですね。

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