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孫文の話。
1924年1月28日は孫文が神戸で大アジア主義の講演を行った日です。孫文の話題をします。
今の広東省中山市で生まれた孫文。兄がハワイへ出稼ぎにいっていたため、10代の時、兄を頼ってハワイへ行きました。
ハワイで教育を受けました。その後、香港で医学を学び、医者になりました。その後、清王朝を倒すべく革命家として・・・。
こんな感じで書きますと歴史の教科書の丸写しでは面白くありませんので、横道それた話を書くことにします。
孫文は少年時代にハワイで民主主義を体験し、それが革命運動の原点とも言われています。
孫文が掲げた三民主義があります。民生主義、民権主義、民族主義です。
民主主義といえば下からの革命という印象がありますが、孫文の場合、下からの革命といわれますと疑問があると言われています。
孫文は、上から目線での「三民主義を与えてやる」という姿勢だったという指摘もあります。
孫文の扱いは南京へ行きますとわかります事。南京には孫文の陵墓「中山陵」があります。大きいため皇帝陵墓といった感じです。
そして孫文の言葉として「天下為公」がありますが、孫文が考えた物ではありません。
中国の古典からの引用ですが、この言葉ができた時代は民主主義はありません。上から目線の儒教エリートの発想の言葉です。
天子が徳のある政治を行う事で天下が収まるという所です。そう考えますと、孫文が下からの革命だったのか謎ですね。
ところで冒頭で書きました神戸での大アジア主義の講演。
神戸には孫文の革命を応援する日本人と華僑がいました。孫文が滞在した移情閣があります。現在は明石大橋の真下の場所に移設され孫文記念館になっています。
孫文の革命を支援していた日本人と華僑がいました。そのため日本で資金集めを行っていました。
本当に孫文は日本に感謝していたのかと言われますと、この辺りも謎です。
余談ですが、孫文は日本に亡命中に、宋家の姉妹の次女・宋慶齢と日本で結婚しました。気になりますのは2人の会話は、何語で話していたかです。
孫文は広東出身で広東語を話していました。宋慶齢は上海出身で上海語を話していました。
当時の中国大陸では官話という共通語がありましたが、どこまで普及していたのかはわかりません。
2人の共通点として孫文は兄を頼ってハワイへ渡り、ハワイで教育を受けましたので英語が話せました。
宋慶齢は財閥の娘で、姉妹3人でアメリカへ留学し、英語が話せました。2人の会話は英語だったかもしれません。
もしかしますと日本語という勝手な想像をしてしまいそうです。
とりとめのない文章になってしまいましたが、孫文についての疑問を書いてみました。