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大石内蔵助が隠れ住んだ場所・岩屋寺。京都市山科区

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 忠臣蔵でお馴染みの大石内蔵助良雄。
 赤穂藩断絶後、京都の山科を拠点に隠れて仇討ちを練っていました。以前、その場所へ行った事の話を書きます。

 岩屋寺の入口の前に「大石良雄隠棲旧址」の記念碑があります。
 赤穂藩筆頭家老・大石良雄は、江戸城松之廊下の事件後、赤穂藩再興を目指しましたが、幕府によってつぶされてしまいました。
 そこで主君の仇討ちのために、この地で案を練っていました。
 そして仇討ち後、赤穂浪士47士は切腹。大石良雄の遺髪は、この地に埋葬され、遺髪塚ができています。

 忠臣蔵では、いかにも吉良上野介が浅野内匠頭に対して意地悪な事をした結果、浅野内匠頭がブチ切れたとなっています。
 しかし現在の説では、特に何も悪さをしていない吉良上野介に対して、いきなり浅野内匠頭が襲いかかりましたとなっています。
 そのため吉良上野介は被害者でした。

 ただ、日本人の思考で、何か起こった場合、被害者側も何か過失責任があるのではないかと考える傾向があります。
 そのため100%加害者責任であっても、どうしても被害者にも責任があると考え、喧嘩両成敗を求めてしまいます。
 喧嘩両成敗の発想は平安時代からあり、喧嘩両成敗で決着をつけないと加害者側が収まらなかったという問題を抱えていました。
 その辺りの話に関しましては、明治大学の清水克行先生の書著「喧嘩両成敗の誕生」(講談社選書メチエ)に、喧嘩両成敗の形成過程が書かれています。
 
 予備知識をつけて歴史散策をしますと、違った視点で物事が見えたりして面白いですね。

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