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滋賀院門跡。滋賀県大津市坂本
明智光秀ゆかりの地・坂本。以前、坂本へ行った話を書きます。
日吉大社の近くに滋賀院門跡があります。
私事の笑い話で恐縮ですが、以前、「○○門跡」という字を見て、昔の神社仏閣の跡地と誤解していました。
実際は跡地ではなく、皇族や公家が住職を努めたお寺のことを「門跡」と言います。
滋賀院門跡。説明の看板を見ましたら以下の事が書いていました。
天海僧正が後陽成上皇より、京都の白川(今の平安神宮付近)にありました法勝寺を下賜されました。そして、この地に移転させました。
その後、後水尾上皇から「滋賀院」という寺号を賜り、江戸時代末まで天台座主の住居になりました。
天台座主は皇室の人が努めていましたので、まさに「門跡」です。
天海は武田信玄の参謀でしたが、武田が滅んだ後、徳川家康の参謀になりました。
そして家康だけでなく、秀忠、家光にも仕えました。ここで疑問に思った人もいるかもしれません。いったい、天海は何歳まで生きたのかです。
108歳です。事実とすれば、当時としては信じられない驚愕の長寿です。
滋賀院の中に入りますと、大河ドラマの放送期間でしたので明智光秀に関する展示がありました。
それだけではありません。天海が身に着けた甲冑があります。僧兵を連想しますね。
殺傷を好まない仏教なのに、高僧・天海が甲冑。不思議な感じですね。天台座主が乗るカゴもありました。撮影禁止なので撮影できませんでした。
小堀遠州が設計した庭園がありました。亀を表した物がありました。鶴を表した物もありますが、残念ながら見つけられませんでした。
幸い撮影した写真では鶴を表した物が写っていますので、鶴を探したい方は挑戦してみてください。
小堀遠州は大名茶人です。武士が庭園を設計。まさに文武両道ですね。
ところで明智光秀は本能寺の変の後、死なずに生きていて、天海だったという説もあります。
源義経は殺されずに大陸に渡り、チンギスハーンになったという説に似ています。(義経のチンギスハーン説は全くのデタラメです)
明智光秀は謎の多い人物だけに、色々な説(異説、珍説を含めて)が出ても不思議ではないですね。