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明智光秀ドラマの展示。西教寺。滋賀県大津市坂本

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 2月7日、大河ドラマ「麒麟がくる」が終了しました。
 そこで今日は大河ドラマで渋沢栄一が登場するまでに、明智光秀のネタを書くため、以前、西教寺へ行った時の話を書きます。
 大河ドラマ放送中、境内の禅明坊はドラマの展示場になっていました。(2021年3月31日まで展示しています)

 中に入りますと、明智光秀、妻の煕子(ひろこ)がお出迎えでした。
 明智光秀を演じた長谷川博己さん、煕子を演じた木村文乃さんのサイン色紙がありました。撮影禁止のため撮影しませんでした。

 明智光秀は側室をもうけずに煕子だけを愛したと説明していました。
 戦国武将で側室をもうけないのは珍しいという解説がありました。でも、前田利家、黒田官兵衛も側室はもうけていませんでした。
 3人の名前が出ると、本当に戦国武将で側室をもうけないのが珍しいのかどうか疑いたくなりますが、仮に100人の武将のうち3人だけでしたら珍しいに入りますので、比較する必要がありますね。

 併設されていますお土産屋。光秀そば、光秀ワイン。「光秀」をつければ何でもありと思いそうですが、そこは決めつけずに、少し調べてみました。
 大河ドラマでもありました通り、明智光秀は越前の朝倉孝景に仕えていました。越前といえば「越前そば」があります。朝倉孝景が非常食として、そばの栽培を推奨したのが越前そばのはじまりと言われています。明智光秀と蕎麦。全く無関係ではないという事ですね。ただ、本当に朝倉孝景に仕えていたのかは謎です。
 光秀ワインを調べてみますと、滋賀県栗東市でワイナリーがあります。まさにご当地ワインです。明智光秀と結びつけるのは強引な気がしますが、産業振興と考えますと、上手な明智光秀の利用法だと思いました。

 ところで2月7日の放送されました「麒麟がくる」の最終回。
 突っ込みどころ満載でしたが、時代劇と割り切れば面白かったですね。
 本能寺の変。織田信長が至近距離で弓をひいていましたが、明智側の鉄砲隊は攻撃しない。そして暴れん坊将軍を思わせる織田信長の大暴れぶり。
 本能寺の変の時、織田信長は49歳でした。あれだけ暴れられる49歳は、事実でしたら驚きですね。

 本能寺の変から3年後、明智光秀が生きているという噂が流れました。
 あくまでも珍説ですが、明智光秀は生きていて、天海として徳川家康に仕えたという話があります。もしかして珍説の存在を、大河ドラマでほのめかしたのか。どんな意図だったのか気になりますね。

 さて、「麒麟がくる」について歴史学者から問題視する声が出ています。歴史学者の呉座勇一先生の記事を紹介いたします。
 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」(KADOKAWA文芸Webマガジン)
 
 確かに創作や脚色だらけの大河ドラマで歴史を学ぼうとしますと、史実と創作部分のつなぎ目がわからないため、気がつかない間にドラマの内容を鵜呑みにしてしまう危険性はあります。

 そのため娯楽として楽しむためには、視聴する側が「創作だらけの時代劇」と割り切る必要があります。
 暴れん坊将軍を見て「徳川吉宗は、徳田新之助と名乗って、め組の所へ遊びにいっていた」と鵜呑みにする人はいませんし、蔓延る悪を退治するため、常に暴れていたと鵜呑みにする人はいません。
 水戸黄門を見て「徳川光圀は諸国漫遊した」とか「印籠を出して悪人をひれ伏せさせた」とは思いません。まして「前中納言の一条三位という官位が同格の悪徳公家がでてきて、印籠が効かなかったため、用意周到に格上の左大臣をつれて来たて、一条三位を観念させた」と鵜呑みする人はいません。
 それと同じですね。

 明智光秀に関する資料が少なく、謎の多い人物だけに、大河ドラマにすると創作と脚色をせざる得ないのが実情かもしれません。
 そこを踏まえながら、創作だらけの時代劇と割り切って楽しむのが一番良いかもしれないですね。

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