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日本で一番出世した人は誰? 豊臣秀吉? 吉備真備も負けていない?

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 誰もが認めます大出世の人物として豊臣秀吉が挙げられます。
 豊臣秀吉は農民の子として生まれましたが、最後は関白にまで上り詰めたのは有名です。
 でも、豊臣秀吉の話を書いたのではありきたりですので、今日は奈良時代に大出世を果たした吉備真備を紹介します。

 吉備真備は地方豪族の出身でしたが、地方豪族が中央(平城京)で仕官する時は下級役人でした。
 下級役人から従五位下という貴族になるのは夢のまた夢でした。しかし、吉備真備は長い年月をかけて右大臣にまで上り詰めました。
 しかし吉備真備は天才的な頭脳をもっていたため、難関な試験に合格し、留学生として遣唐使と一緒に唐へ渡りました。
 この時、一緒に留学したのが阿倍仲麻呂でした。吉備真備、阿倍仲麻呂は突出した成績だったため、唐では高い評価を受けました。
 帰国後、日本では疫病が大流行し、政治の中枢を握っていた藤原四兄弟が相次いで亡くなるなどして、朝廷が回らない状態でした。
 この時、天皇家の血を引く橘諸兄が首班となり、唐へ留学していた吉備真備、玄昉を抜擢しました。
 でも、順調に出世街道かと思いそうですが、そうではありませんでした。
 藤原家は黙っていませんでした。吉備真備、玄昉の躍進に不満を持った藤原広嗣が乱を起こしました。
 この時は吉備真備、玄昉の排斥に失敗しましたが、さらに難問がやってきました。

 聖武天皇の皇后だった光明皇后は藤原家出身でした。
 聖武天皇が上皇になり、娘に譲位(孝謙天皇)にしましたが。既に聖武上皇は健康状態も良くなく、しかも政治に関心がありませんでした。
 実権を握ったのは光明皇后と藤原仲麻呂で、2人で政治を動かしました。孝謙天皇は何の実権もありませんでした。
 この時、橘諸兄を押さえ込み、橘諸兄が抜擢した吉備真備、玄昉を排斥する動きがあからさまになり、ついに2人とも左遷されました。

 翌年、吉備真備は遣唐使の副使になりました。大使は藤原清河でした。位階は吉備真備の方が上だったため、位階の下の人物が大使になるという異例な状態でした。
 当時、遣唐使は命がけの航海でした。船が難破して体よく吉備真備を亡き者にしようとした意図があったのではないかという憶測もあります。
 帰国時、大使の藤原清河の船は難破しました。そこには阿倍仲麻呂が乗っていました。2人とも日本に帰国できず、唐で一生を終えました。
 その一方で吉備真備が乗った船は無事帰国しました。もう1隻には鑑真が乗っていて、6度目の挑戦で来日を果たしました。
 帰国後、吉備真備が鑑真の通訳をやったりしていました。

 さらに光明皇后と藤原仲麻呂の暴走は続き、光明皇后の娘・孝謙天皇は譲位させられ、お飾りの天皇・淳仁天皇が即位しました。

 しかし、光明皇后が亡くなり、権勢をふるっていた藤原仲麻呂に陰りが見えてきました。
 孝謙上皇が立ち上がり主導権を奪います。この時、藤原仲麻呂は抵抗すべく乱を起こしました。恵美押勝の乱です。
 吉備真備は孝謙上皇の家庭教師だった縁で、吉備真備が鎮圧軍の指揮を執り、藤原仲麻呂を撃退。淳仁天皇は譲位させられました。
 そして孝謙上皇が重祚して、称徳天皇として皇位に就きました。道鏡と怪しい関係になった天皇です。
 この時、吉備真備は功績を認められ右大臣になりました。70歳を超えていました。

 称徳天皇が崩御の際、称徳天皇は皇太子を誰にするか決めていませんでした。
 そのため天智系を推す藤原百川と、天武系を推す吉備真備達でモメましたが、藤原百川達の強引な手法で天智天皇の孫・白壁王を天皇に擁立。
 光仁天皇になりました。吉備真備は高齢を理由に全ての官職を辞職しようとしましたが、光仁天皇から「右大臣の辞職は認めない」と言われ留任。
 光仁天皇でも重宝されましたが、数年後、高齢を理由に辞職を申し出ました。ようやく辞任が認められました。
 それから吉備真備の動向は記録にはありませんが、右大臣を辞任して数年後に81歳で亡くなりました。

 豊臣秀吉も波乱万丈ですが、吉備真備も負けていないですね。

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