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仁和寺を建立した人。光孝天皇。京都市右京区
仁和寺といえば、高校の古典で習いました吉田兼好の徒然草「仁和寺にある法師」を連想しますね。
仁和寺を建立したのは光孝天皇です。そこで以前、仁和寺周辺を散策した話を書きます。
西暦880年頃、藤原基経が権勢を振るっていました。
幼い皇族を天皇にし、自分は摂政となり天皇を操り人形にする摂関政治真っ只中でした。
幼くして天皇になった陽成天皇が成長すると、奇行が目立つという理由で無理やり退位させました。
そして次の天皇に選んだのは55歳だった光孝天皇です。884年です。
他の皇位継承権を持つ皇族は、天皇になるために、権力者・藤原基経に媚びていました。
しかし、光孝天皇は媚びる事はせずにいました。その姿勢だったため、藤原基経は光孝天皇に好感を持ち、天皇にしました。
熟年の天皇といえども、時の権力者の意向に逆らうことはできません。
そのため光孝天皇は逆らう意思がない事、野心がない事を示すためか、自分の息子達全員を臣籍降下させました上、政治を藤原基経に一任しました。
当時、関白という役職はありませんでしたが、藤原基経は天皇を補佐する事実上の関白になりました。
886年、光孝天皇は「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願され、仁和寺の建設が始まりました。
しかし、翌年、仁和寺の完成を見ぬまま崩御されました。
光孝天皇の後継者(立太子)は不在のままでした。
しかし、光孝天皇が病で倒れました。その時、臣籍降下した息子の1人・源定省を皇族復帰させ、翌日、立太子になりました。
源定省を皇族復帰させたのは、藤原基経の意向があったのではないかと言われています。
自分の息子が後継者になって安心したのか、その日のうちに光孝天皇は崩御されました。そして宇多天皇の誕生です。
ところで一説には光孝天皇は自炊していたと言われています。
天皇になるまでは不遇の人生で、質素な生活を送っていたため、自炊していました。
天皇になっても不遇時代を忘れないようにと自炊していました。
あくまでも一説なので事実かどうかは不明ですが、興味深い話ですね。