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比叡山攻撃は織田信長だけではなかった。元天台座主の足利義教
昨年の大河ドラマ「麒麟がくる」でも描かれていました比叡山焼き討ち。
比叡山攻撃を行ったのは、神仏を恐れない織田信長だからこそできたという印象があります。
しかし、実際には織田信長の前にも比叡山に攻撃を行った人がいます。
室町幕府の6代目将軍・足利義教です。専制政治・恐怖政治で有名な人ですね。
しかも足利義教は元天台座主。比叡山の元・トップが比叡山を攻撃する。前代未聞の出来事です。
さて足利義教ですが、元々は跡継ぎとされなかったため出家させられました。当時は跡継ぎ候補でなければ、食い扶持が困らないよう、もしくは変な勢力と結びつかないよう、出家させるのが普通でした。
足利義教は将軍の子という親の七光りだけでなく、逸材と言われたぐらい抜群に頭が切れました。そのため若くして天台座主になりました。
ところが4代目将軍の足利義持が亡くなった時、後継者を決めていませんでした。
足利義持には子供がいました。将軍職を息子の義量に譲り隠居しました。しかし義量が早世したため義持が政務に復帰しました。
しかし、その後は後継者を決めずに亡くなりました。
後継者を決める際、足利義持の政治顧問で、大きな影響力のあるが、くじ引きを提案しました。
くじ引きで選ばれたのが義持の弟の足利義教でした。6代目将軍の誕生です。
この時、足利義教は将軍就任にあたり「俺の好き放題させてくれ」という条件提示をしていました。
将軍就任を固辞されては困ると判断した政権幹部達は承認せざるえませんでした。
当時、くじ引きで決まったのは、神の選択という事もあって「俺は神に選ばれた将軍だ」と言わんばかりに専制政治を行いました。
そして頭が切れるだけでなく、キレやすい性格(演技?)で、飯がまずいで料理人を罰したりするなど、気に食わないと思ったら罰したりしました。
本当にキレやすかったのか、それとも「俺は将軍だ。舐めるなよ」と言わんばかりに、キレやすい人物を演技していたのかはわかりません。
ところで足利義教は将軍就任時は、比叡山・延暦寺と良好な関係を築こうと考えていました。
延暦寺の力はバカにできないため、上手に利用してやろうという魂胆です。そもそも足利義教は天台座主だったので、自分の味方につけることができると思っていました。
しかし、すぐにその思惑は崩れました。延暦寺が「幕府に不正がある」と訴訟を起こしたからです。
ふざけるなと思いつつも、ここはこらえた足利義教。訴訟は延暦寺が勝ちました。それに調子に乗った延暦寺。
そのため足利義教はブチ切れ、ついに比叡山へ派兵しました。取り囲まれた延暦寺。この時、延暦寺は降伏しました。
でも、許さない足利義教。延暦寺の僧侶4人を招いた際、なんと首を切ることをしました。
延暦寺は抗議のため、自ら根本中堂に火を放ち、僧侶たちが焼身自殺を行いました。しかし足利義教は無視します。
その上、延暦寺は足利義教を呪っているという噂が流れたため、怒り狂った足利義教は門前町の坂本に火を放ちました。
そして延暦寺を屈服させました。
元・天台座主による比叡山攻撃。「俺は神から選ばれた将軍だ」と言わんばかりに、仏を恐れない振る舞い。
そんな足利義教ですが、嘉吉元年(1441年)、守護大名の赤松満祐によって殺されました。嘉吉の乱です。神に見放されたという瞬間でしょうか。
足利義教は、織田信長を超える神仏を恐れない人物に思えますね。
ただ、実際の織田信長は神仏を信仰していました。その証拠に桶狭間の戦いの前に必勝祈願を行いました上、戦いに勝利したあと、熱田神宮に塀を奉納しています。意外と権威を重んじていました。