Blog

ロシアはヨーロッパではない? ロシア国内のアンケート

ブログ

 4月21日にNHKの番組「クローズアップ現在+」で放送されました「プーチン大統領の思惑は・ロシアが独自の存在感」についての話を書きます。

 ロシア政治や国際情勢といった難しいことはわかりませんが、驚くべきアンケート結果を取り上げていました。
 プーチン大統領の「欧米とは違う」の発言だけでなく、ロシアの世論調査で「ロシアはヨーロッパか?」というアンケートに対して64%の人が「ロシアはヨーロッパではない」という結果でした。

 ロシアはヨーロッパなのか、ヨーロッパとは違うのか。ロシア人が抱くヨーロッパへの複雑な感情があるようです。
 ちょっとした歴史の話を書くことにしました。

 古代、ロシアにはどんな民族が住んでいたのか、私にはわかりません。
 ただ、大昔、カスピ海あたりにいたアーリア人で、西へ行った人たちがロシアや東欧に住み、南へ行った人たちがイラン系になったと言われています。
 その後、西ローマ帝国を滅ぼした要因になりましたゲルマン民族の大移動は、東からの騎馬民族・フン族におされ、ゲルマン人が西へ西へと逃げていきました。
 フン族。アジア系と言われています。フン族の中にはモスクワ周辺に住み着いた人達もいたかもしれません。

 8世紀からスカンジナビア半島やデンマークにいたノルマン人(バイキング)がヨーロッパへ押し寄せ大暴れし、各地を侵略していきました。
 ノルマン人の軍団で、リューリクに率いられた人達はモスクワ周辺でノヴゴロド王国を建国(862年)。
 その中にいたオレーグがウクライナ周辺でキエフ公国の建国しました。(882年)。キエフ公国のことを「キエフ・ルーシ」とも言います。
 ロシアへ渡ったノルマン人達は、彼らは自分たちのことを「ルーシ」と呼んでいました。一説にはロシアの語源は「ルーシ」と言われています。
 キエフ公国はビザンツ帝国(東ローマ帝国)と交易を行いながらはヨーロッパになろうとしました。988年にキリスト教(東方正教)に改修しましたのも、その1つです。

 1200年代、事態は急変しました。東からモンゴル帝国が襲ってきました。オゴデイがハーンの時代、ヨーロッパへ攻めてきました。
 オゴデイはヨーロッパ制覇を考えていましたが、それを果たす前に亡くなりました。
 モンゴル帝国の軍隊はヨーロッパから引き上げましたが、チンギスハーンの長男・ジョチが率いる軍勢はモスクワ周辺に残りました。
 モンゴルに支配された時代ということでロシア人は「タタールのくびき」と呼んでいます。ジョチ家の国・キャプチャク・ハーンのはじまりです。
 タタールはモンゴルという意味で、タルタルソースの「タルタル」の語源です。

 しかしモンゴルの支配に対抗する勢力がでてきました。モスクワ大公国です。
 14世紀にイワン1世がキャプチャク・ハーンを破り、イワン3世界が1480年にキャプチャクハーンへの貢納を拒否しました。
 モンゴルの支配方法は、上納金を納めれば自治を認めるという政策でしたので、事実上の独立宣言になります。
 そのイワン3世ですが、ビザンツ帝国の最後の皇帝の姪と結婚し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の継承者と名乗りました。
 イワン4世の時代、皇帝の称号として「ツァーリ」を採用しました。ロシア読みで「カエサル」のことです。まさにローマ帝国の継承者ですね。
 国の紋章はローマ帝国の紋章と同じ双頭鷲です。

 そしてモスクワ大公国はヨーロッパになろうと努力しました。
 その姿勢はロマノフ王朝にも引き継がれました。女帝・エカテリーナ2世はプロイセン出身です。
 ヨーロッパの王族・貴族達と婚姻を通じて関係を結んでいたのがわかりますね。

 ただ、エカテリーナ2世はロシア語を学び、ロシアの文化を学び、ロシアに溶け込もうとしたためロシアの貴族には人気がありました。
 一方の旦那のピョートル3世はドイツかぶれだったため、ロシアの貴族達には不人気でした。ロシア人がヨーロッパに対する複雑な感情が垣間見えますね。
 ちなみに、旦那のピョートル3世はツァーリに即位するものの、エカテリーナ2世に追い出され、エカテリーナ2世が女帝になりました。

 ざっと歴史を見てみますとロシアがヨーロッパになろうとしつつも、ヨーロッパに染まりたくない姿が垣間見えますね。
 しかしアジアとは主張していません。タタールのくびきが暗い影を落としているようです。

 プーチン大統領の年次教書演説の映像では「我々は欧米とは違う」と発言しつつ、ロシアの国家の紋章・双頭鷲が掲げられていました。
 今のロシア人の心境を象徴する映像に思えました。少し歴史を知るだけでもニュースを違った視点で見ることができますね。

Share

Category

Archive

Recent posts