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中国・西安で感じるイスラム文化

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 昨日に引き続き2010年に西安へ行った時の話を書きます。

 阿倍仲麻呂達が唐へ留学した時、長安は国際都市でした。そして西域(シルクロード)へ行くための玄関口でもありました。
 そもそも唐は漢民族ではなく鮮卑族の王朝だったため、異民族や外国の文化と交流したり取り入れたりする懐の深い政策をとっていました。
 そのため阿倍仲麻呂が日本人だったにも関わらず、唐の官僚として大出世を果たしました。

 西安を散策していますとイスラム教徒が多いことに気づきます。
 西安周辺のイスラム教徒は回族と呼ばれる人たちです。アラブやペルシャからやってきた人たちの子孫とも言われています。
 長年に渡り漢民族と暮らしていたため、中国語を使います。漢民族との混血も進んでいる話もあります。

 西安で一番大きなモスク・西安大清真寺へ行きました。中国語でモスクは「清真寺」と書きます。
 建物は中華風です。中華とイスラムの融合といった感じです。撮影しても良いと言われましたので礼拝堂の中も撮影しました。

 この日の晩、イスラム教徒が行く食堂へ行きました。食べ物が美味しかったです。
 日本の中華料理屋では見ることができないイスラム教徒の食事を体験しました。

 阿倍仲麻呂が唐にいた頃、唐にはイスラム教が伝来していた可能性は高いです。シルクロードを通じてペルシャ人が長安にやってきたと言われているからです。この頃、ペルシャにはイスラム帝国のアッバース朝がありました。
 そして751年、今のキルギスタンのタラス河畔で、唐とアッバース朝が激突しました。タラス河畔の戦いです。この時の司令官は高麗人でした。唐のグローバル人材の活用をしていた一面です。しかし、唐は惨敗し、その結果、西域進出を断念しました。その後、中央アジアでイスラム化が進みました。
 余談ですが、タラス河畔の戦いで製紙技術を持った唐の兵が捕虜になり、それがキッカケでイスラム世界にも製紙技術が伝わりました。

 奈良時代、日本史を見る限りでは遣唐使で唐とのつながりはあっても西域のつながりは見えてきません。唐の視点で見ますとペルシャやイスラムがあります。
 しかし、奈良の正倉院にはペルシャ製の品々があります事から、どれくらいかはわかりませんが、奈良時代の日本にもペルシャをはじめとしました西域についての認識はあったことが言えますね。

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