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城壁都市・中国西安。
今週は城壁都市を取り上げています。今日は中国の西安です。2010年に西安へ行った時の話です。
西安は古くは長安と呼ばれていた都市で、歴代の王朝の首都でもありました。代表的な王朝として隋、唐が挙げられます。
日本の奈良時代、遣隋使、遣唐使が派遣されました。この地で皇帝に謁見したり、留学生が学んだりしました。
私は上海経由で西安へ行きましたが、西安は上海から飛行機で2時間の距離にありますので、大阪から沖縄よりも遠いです。中国の規模の違いを感じました。
現在では中国の大気汚染は改善されている話を聞きますが、当時の西安の大気汚染がひどいため空が霞んでいました。
夜はライトアップされるので綺麗でした。
都市を中国語で「城市」と書きます。都市とは、城に囲まれた所です。
以前、ブログで「国」と「邦」の違い。劉邦まで遡る話 で紹介しましたが、古代中国では「国」は都市を意味しました。
「国」の旧漢字は門構えに「或」です。門構えは城壁の意味で、「或」は守るべき物を意味する音と同じ漢字です。まさに都市は城壁と一緒という事ですね。
ところで日本の平城京、平安京は長安を参考にしましたが、城壁は設けられませんでした。
なぜ城壁を設けなかったのかはわかりませんが、平安京に城壁がなかったため、遠方から盗賊団がやってきても防衛できなかった話があります。
西安の公園には阿倍仲麻呂の記念碑があります。
阿倍仲麻呂は遣唐使の留学生として吉備真備、玄昉と共にて唐へ渡りました。
阿倍仲麻呂の驚愕すべき事は超難関試験の科挙に合格した事です。そのため唐の官僚になりました。皇帝だった玄宗に気に入られました。
そして官僚時代に李白と知り合い、親しくなりました。しかし、あまりにも阿倍仲麻呂が優秀なため、玄宗は手放したくなかったため、吉備真備、玄昉が帰国する際、阿倍仲麻呂は帰国許可がでませんでした。
再び、吉備真備が遣唐使の副使として来唐しました。
この時、阿倍仲麻呂は帰国許可が出たため日本に帰国しようとしましたが、乗った船が難破。幸い命は助かり、再び、唐の官僚として働く事になりました。
今のベトナムにあたる場所の総督など要職を重ねて生きました。安史の乱なども起こりました。安史の乱は安禄山、楊貴妃が出てきます。
もしかして阿倍仲麻呂は安禄山、楊貴妃とも顔見知りだった可能性はありますね。安禄山、楊貴妃は別の機会に紹介いたします。
ところで「物」を中国語にしますと「東西」です。買い物を中国語で表現しますと「買東西」です。城壁都市の真ん中の大通りの東側なる市場、西側にある市場、それぞれに物資がある事に由来します。
日本でも平城京、平安京の初期の頃は東の市、西の市がありましたが、物を「東西」とする事はありませんでした。日中の文化の違いを感じますね。
西安には大雁塔があります。三蔵法師(玄奘)がインドから持ち帰った膨大な経典を収める塔です。
玄奘の銅像もありました。夏目雅子が演じていた玄奘の印象がありますと、あまりの違いに驚くかもしれません。
大雁塔に登り、西安の町並みを眺めました。奈良時代の日本人にとって西の端で、世界最大の都だった長安ですが、そこから先にも遠い世界が広がっている。そんな事を感じました。