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茨田堤。仁徳天皇と淀川。大阪府門真市。

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 以前、門真市を散策した時の話です。
 京阪・大和田駅の近くに伝・茨田(まんだ)堤があります。この堤は仁徳天皇が治水のために築いた堤と言われています。
 日本書記には、この地が面積が広い割りには田畑がないのは淀川の氾濫のせいと考えた仁徳天皇は、この地に堤防を建設する事になりました。

 しかし、どうしても2ヶ所だけ決壊してしまう場所がありました。
 困り果てた仁徳天皇。夜、夢の中で現れた神が「武蔵人強頸(こわくび)と河内の人茨田連衫子(まんだのむらじころもこ)の二人を川の神に奉れば、きっとできるだろう」と告げました。要するに生贄を2人用意しろというお告げです。そこで仁徳天皇は2人を探し出しました。

 強頸は泣く泣く犠牲になりました。それにしても武蔵(関東)の強頸が、関西から呼び出され、生贄にされるので可愛そうですね。
 それと同時に、古代に武蔵(関東)に人を派遣して探す出すのは執念としか言いようがないですね。

 もう1人の生贄・衫子ですが、2つのひさご(ひょうたん)を持って「神が私を求めるなら私は水中に沈むが、そうでないなら偽の神だろう」と言った。
 そして水に飛び込むと、ひょうたんが浮き輪になり、衫子は死なずに済みました。
 日本書紀で、仁徳天皇の誤りを記述するだけでなく、衫子が権威や神のお告げに対して、良い意味で疑いを持って行動した事を記述していますので、なぜ明記したのか興味深いですね。

 勝手な想像で恐縮ですが、日本人があまり神仏を信じないのは、神のお告げは当てにならないというのが古来からあったのかもしれないですね。
 生贄は無意味で野蛮な事だというのを暗に表現したのかもしれないですね。ただ、その後も明治になるまで、各地で人柱伝説や伝承がありますので、この教訓が生かされたかどうかは謎ですね。

 この後、無事、2ヶ所を塞ぐ事ができ堤防は完成しました。
 今と違って重機はありません。そして、この頃、日本には鉄製の鍬などがありませんでした。木製のスコップや鍬だと、簡単に駄目になりそうですね。
 そのため想像以上の難航工事だったと思われますね。

 仁徳天皇の父親の応神天皇の時代から朝鮮半島や中国大陸の技術を取り入れようとしている話が日本書紀に書いています。
 日本書紀の仁徳天皇の章に高麗(こま)から鉄製の鍬が伝わったとも書いています。
 日本書紀の内容は、どこまで正確なのかは不明ですが、外国の技術を少しづつ取り入れていった事は、わかりますね。

 ところで「ひさご」は和語で「ひょうたん」の事になります。

 そして仁徳天皇は治水事業に力を入れていました。
 大阪に堀江という地名がありますが、仁徳天皇が水路を掘削して排水を良くして堀江と名づけた事に由来します。
 堀江の話も日本書紀の仁徳天皇の章に書いています。

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