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外交交渉団の宿になった本法寺。京都府京都市上京区

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 以前、京都散策した時の話を書きます。
 上京区に日蓮宗のお寺・本法寺があります。
 日蓮宗の話を書きたくても、私の不勉強のため、全く知識がありませんので、日蓮宗の話は書けません。そこで別の話を書きます。

 本法寺は、1604年に李氏朝鮮から来日した松雲大師一行が宿泊した宿です。
 来日の目的は豊臣秀吉の朝鮮出兵後の日本の情勢を探るためでした。日本が今度も朝鮮出兵を行うのか、それとも行わないのか。
 征夷大将軍になった徳川家康の真意を探るためでした。松雲大師一行は、伏見城で徳川家康と会見しました。

 徳川家康は「平和を望んでいる。朝鮮に攻めない」と明言しました。
 徳川家康は朝鮮出兵に参加していません。豊臣秀吉に要請されても「江戸の開拓のため、とても手が回らない」と言って逃げていました。
 結果、徳川家康は力を温存し、関ヶ原の戦いで勝利し、実権を握る事に成功しました。

 豊臣秀吉の朝鮮出兵は、明を攻めるため、朝鮮半島の通行許可を求めたが断られたためです。明を攻めた理由は諸説あります。
 朝鮮出兵に参加した武将達は、豊臣秀吉の目的を知らなかった、理解できなかったのかはわかりません。
 ただ「北京に百万石の領地よりも、国内で1万石の領地の方がありがたい」ため、武将達はやる気が全く起こりませんでした。徳川家康も同じでした。
 そのため徳川家康は松雲大師に対して「平和を望む」と回答しました上、実際に朝鮮出兵に関わっていない事から、松雲大師を納得させるのには十分でした。
 これをキッカケに日本と朝鮮との和平交渉が進み、1607年から朝鮮通信使がはじまりました。

 ところで昔の学校の歴史の授業では、江戸時代に鎖国を行い、長崎の出島だけオランダと清の交易を行ったと教えていました。
 しかし実際には函館では松前藩がアイヌやアイヌを介して沿海州との交易、薩摩藩では琉球を介した交易、そして対馬藩は李氏朝鮮と交易を行っていました。

 興味深いのは薩摩藩と対馬藩は、関ヶ原の戦いで西軍についたものの、処罰はされませんでした。
 この時、徳川家康は外交実務経験がない事から、薩摩と対馬には外交窓口を担ってもらうため、あえて不問にしたと言われています。

 さて、徳川家康は他国へ攻めることはしませんでしたが、屈強の侍を傭兵として輸出していました。
 シャムで日本人王朝を作ろうとした山田長政が有名ですね。彼らは日本人傭兵の代表です。

 1623年にインドネシア東部のアンボン島で起きましたアンボイナ事件。
 オランダがイギリス商館を襲った事件ですが、この時、日本人も犠牲になっています。
 イギリス商館を警備する日本人傭兵がいたためです。この事件をキッカケにイギリスは東南アジアから撤退し、インドに活動の場を移しました。

 最後の一言書きますと、徳川家康が松雲大師と伏見で会見。この時、徳川家康は征夷大将軍でした。
 江戸ではなく京都で執務をとっていました。最後の将軍・徳川慶喜は、江戸にいなかった将軍ですが、家康も似ていますね。

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