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平等院多宝塔跡。京都府宇治市
以前、宇治へ行った時の話です。宇治は宇治茶だけでなく平等院が有名ですね。
10円玉の表面に描かれています平等院鳳凰堂があります。デカデカと「10」と描かれているのが裏面になります。
平等院は1053年、藤原道長の息子で、時の関白・藤原寛子が建立しました。
宇治は平安貴族の別荘地でした。源氏物語の光源氏のモデルと言われています源融の別荘でした。
その後、所有者が変わっていき、藤原道長が譲り受け、息子の藤原頼道が平等院を建立しました。
今回は平等院ではなく、その近くにあります平等院多宝塔跡の話です。
正直な事を書きますと、だいぶ昔に平等院へ行った事がありますので、平等院は寄らずに、平等院の側を通っていますと、平等院多宝塔跡を発見しました。
ここは誰もいないので、独り占めで見学できました。
平等院は藤原頼道が建立しましたが、多宝塔は娘の藤原寛子が建立しました。
摂関政治。天皇の外祖父になり政治を動かしていました。藤原頼道も同じ事を考え、娘の寛子を後冷泉天皇の皇后にしました。
寛子は男の子を産む事を期待されていました。しかし、男の子を産む事ができませんでした。
寛子は長生きをしました。92歳でした。皇后の長寿記録は、昭和天皇の皇后(香淳皇后)の97歳ですが、香淳皇后以前ですと、寛子の記録が一番でした。
藤原頼道の時代から摂関政治が廃れ始めました。そして摂関家と親戚関係にない後三条が天皇になり、その後、白河天皇となり院政の時代になっていきました。
その様子を寛子は見続けてきました。どういう気持ちだったのかはわかりません。時代の移り変わりを眺めていた皇后だったと言えますね。