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小楠公さん。四條畷神社。大阪府四条畷市
先週に続いて以前、河内を散策した時の話を書きます。
四條畷神社。小楠公(楠正行)が祀られています。楠正行は楠正成の嫡男です。楠正成の事を楠公、もしくは大楠公と呼ぶため、嫡男の事を小楠公と呼びます。
そのため四條畷神社の事を、親しみをこめて「小楠公さん」と呼びます。
楠正成は河内国赤坂(現:大阪府千早赤阪村)出身の武将で、河内を拠点にしていました。
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒す際、後醍醐天皇の側につき河内で挙兵しました。鎌倉幕府が倒れ、後醍醐天皇による親政(建武の新政)が始まりました。
建武の新政は、後醍醐天皇の時代錯誤の理想を振りかざしたり、武家を軽視したりするなど、滅茶苦茶な政治を行っていました。しかも朝令暮改で二転三転。
武家や公家の間で不満が溜まった上、後醍醐天皇への失望感から、足利尊氏をリーダに担ぎ出されました。足利尊氏は挙兵しました。
足利尊氏は、もともとの名前は「高氏」でした。後醍醐天皇が褒美として自分の諱(名前)の「尊治」の「尊」を授けると言ったため、高氏から尊氏になりました。
そして武家の中では優遇されていた方だったため、その足利尊氏が挙兵するというのは、余程の事だったと推測できます。
そんな後醍醐天皇に忠誠を尽くしたのが楠正成と嫡男の楠正行でした。しかし父親の楠正成は湊川の戦いで破れ戦死。楠正行は四條畷の戦いに敗れて戦死しました。そして建武の新政は3年で崩壊し、後醍醐天皇は吉野へ逃げました。南北朝のはじまりです。
明治になり天皇の権威を高めるべく忠臣を祀るようになりました。神戸の湊川には父親の楠正成を祀った湊川神社。
1890年に四條畷には楠正行ら足利と戦った武将を祀った四條畷が創建されました。四條畷の戦いから550年後でした。
神社は小高い所にあり大阪市内を一望できます。あべのハルカスを見ることもできます。
670年前の出来事と現在。そんな歴史をつなぐ神社だと感じました。