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慧日寺の紅葉。兵庫県丹波市山南町

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 11月13日、丹波市山南町にあります慧日寺へ行きました。
 丹波市には紅葉の見所がいくつかあります。慧日寺は、その1つに挙げられます。

 1375年、時の室町幕府の管領・細川頼之によって創建されました。
 その後の明智光秀の丹波攻めの時に焼失し、現在の建物は江戸時代に再建された物です。
 さらっと江戸時代と書いていますが、江戸時代の建物が残っている事も凄いですね。

 境内を散策しました後、本堂や仏殿に入りました。本堂は茅葺屋根で、しかも屋根のコケの緑が良い味わいを出していました。
 紅葉を撮影しました。色彩が豊かで綺麗でした。机や水に写る紅葉も綺麗でした。まさに秋といった感じでした。

 ところで創健者の細川頼之ですが、足利義満を支えた管領です。管領は将軍を補佐する役職で、足利家の親戚の細川家・畠山家・斯波家がなれる役職でした。
 足利義満の父親の二代目将軍・足利義詮は若くして亡くなり、11歳で足利義満が将軍になりました。
 11歳の少年に政治を行う事はできません。この時、父親代わりとして管領の細川頼之が足利義満を支えました。

 しかし細川頼之が足利義満を支える時代に終わりを告げます。1377年の康暦の変です。
 管領の細川頼之と斯波高経の関係が悪化し一触即発の事態になりました。この頃、南北朝の統一はされていませんでした。
 そのため南朝が京都の混乱に乗じて紀伊国で挙兵。細川頼之は弟を鎮圧軍の総大将として派遣したが鎮圧に失敗しました。そのため反頼之派が勢いづきました。
 危険を感じて出家して所領のある四国へ渡る事を考えた細川頼之でしたが、この時は足利義満に引き止められました。
 しかし、反頼之派の勢いは止まらず、足利義満は恩人であります細川頼之を庇いきれず、細川頼之は辞職して四国へ渡りました。
 そして斯波高経の息子の斯波義将が管領になりました。

 「四国に渡る」と書きましたが、この時代の守護大名は京都に集められていましたため、所領にいる事はありませんでした。所領管理は守護代が行っていました。
 江戸時代の参勤交代で大名が地元と江戸にいましたが、その原型という感じです。

 ところで一説には足利義満は、細川頼之の失脚を望んでいたとも言われています。
 幼少の頃から管領として支えてくれた恩人ではありますが、大きくなって自分が政治を動かしたくても、細川頼之の存在がありますと身動きがとれませんでした。
 目の上のたんこぶを取り除くため、失脚を望んでいたという説です。

 その後、管領になった斯波義将が足利義満と対立し、辞任しました。
 その際、足利義満は細川頼之に対して、再度、管領になるよう要請しましたが出家していたこともあり、息子の細川頼元が管領になりました。

 ところで細川頼之の領地ではない丹波で、なぜ、お寺を創建したのか。気になる所ですね。しかし創建理由を調べてみましたが、わかりませんでした。
 タイムマシンにのって室町時代へいき、細川頼之に確認しないと真相はわからないかもしれないですね。

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